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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第202話 シルヴァン村

「最初の戦場は、シルヴァン村だ」

 書斎の巨大な地図を指し示しながら、アレス様は低い声で告げた。その指先が示すのは、険しい山脈の麓に、忘れられたように存在する小さな集落だった。

「シルヴァン村…」

 私は、その名前に聞き覚えがなかった。ブランドンから渡された報告書にも、確かその地名があったはずだ。

「領内で最も貧しく、そして最も頑固な連中が集まる場所だ。冬は深い雪に閉ざされ、痩せた土地では麦さえ十分に育たない。ここで失敗すれば、この計画は二度と浮上しないだろう」

「最も困難な場所ということですね。望むところですわ」

 私の即答に、彼はわずかに灰色の目を細めた。

「甘く見るな。彼らは施しを何より嫌う。お前の言う『契約』という言葉が、彼らに通じるかどうか。下手をすれば、村から追い出されるだけで終わるぞ」

「わたくしたちは、物を与えにいくのではありません。選択肢を提示しにいくのです。受け入れるかどうかは、彼ら自身が決めることですわ」

 私の揺るぎない視線を受け止めると、彼は短く息をついた。

「…好きにしろ。ただし、護衛はつける。最小限の人数だがな」

「ありがとうございます。ですが、これは武力で解決できる問題ではありませんわ」

「分かっている。だからこそ、これはお前の戦いだと言っている」

 彼の言葉は、重かった。これは、王宮の晩餐会とは全く質の違う、大地に根差した人間の誇りと意地を相手にする、新しい戦いなのだ。



 翌日、私は公会本部の事務所に主要なメンバーを集めていた。集まったのは、今や私の右腕として厨房を仕切るレオ、塩漬け肉の達人である古参料理人のゲルト、そして数名の若く体力のある料理人たちだ。

「皆さんにお集まりいただいたのは他でもありません。公爵家の正式事業として、山間部に公共食堂を設立する計画が始動しました」

 私の言葉に、室内に緊張が走る。

「そして、その最初の試験運用地となるシルヴァン村へ向かうチームの、現場リーダーを決めました」

 私は、まっすぐにレオを見つめた。

「レオ、あなたにお願いしたいのです」

「ぼ、僕がですか!?」

 レオは、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で目を丸くした。

「公爵夫人、そのような大役、僕にはとても務まりません! まだ若輩者ですし、経験も…」

「あなただから、お願いするのです」

 私は、彼の狼狽を遮るように、静かに、しかしはっきりと告げた。

「聞きました。あなたも、山間の貧しい村の出身だと。ならば、分かるはずです。彼らが何を恐れ、何を誇りにしているか。わたくしや、他の誰かが語る百の言葉より、あなたのたった一言の方が、彼らの心に届くことがあるかもしれない」

「……」

 レオは、言葉を失って俯いた。彼の震える拳が、この役目の重圧を物語っている。

「へっ、面白そうな喧嘩じゃねえか」

 沈黙を破ったのは、腕を組んで話を聞いていたゲルトだった。

「頑固な年寄りを説得するにはな、腹の底から温まるシチューが一番だ。俺も一枚噛ませてもらうぜ、奥様」

 その、ぶっきらぼうな助け舟に、レオははっとしたように顔を上げた。

「ゲルトさん…」

「心配すんな、若いの。お前さんは難しいことを考えてりゃいい。腹を空かせた連中の胃袋を満たすのは、俺たち年寄りの仕事だ」

 ゲルトの言葉に、他の若い料理人たちも「はい!」と力強く頷いた。レオの瞳に、ようやく決意の光が宿る。

「……分かりました。お受けいたします、公爵夫人」

 彼は、深く、深く頭を下げた。

「この命に代えても、必ずや、この任務を成功させてみせます」

「命に代える必要はありません。生きて、美味しいものを作って、皆で無事に帰ってくること。それがあなたの任務です」

 私のその言葉に、レオは少しだけ驚いた顔をしたが、やがて、はにかむような、それでいて力強い笑みを浮かべて頷いた。



 出発の日の朝は、空から白いものがちらつく、冬の始まりを告げる日だった。公爵家の門の前には、一台の頑丈な荷馬車が停まっている。積まれているのは、大型の鍋や調理器具、そして当座の食料である小麦粉や塩漬け肉の樽だけだ。華美なものは何もない。あくまで、自分たちは料理人としてそこへ向かうのだという、無言の意思表示だった。

「奥様、準備が整いました」

 レオが、引き締まった表情で報告に来る。私は頷くと、最後の確認のために荷馬車へ歩み寄った。

「レティシア」

 背後から、静かな声がかかった。振り返ると、アレス様がそこに立っていた。見送りに来てくれたのだろうか。

「行ってまいります、アレス様。必ず、良い報告を持ち帰りますわ」

「ああ」

 彼は短く答えると、私のそばまで歩み寄ってきた。そして、私の耳元で、他の誰にも聞こえないように、低く囁いた。

「無理はするな。危険だと判断したら、全てを捨ててすぐに戻れ。村の一つや二つ、なくなったところで、アレスティード領は揺らぎはしない」

「まあ、縁起でもない」

「事実だ」

 彼の言葉は、冷たく聞こえるかもしれない。だが、その根底にあるのが、私個人の身を案じる、不器用な優しさであることを、私はもう知っていた。

「…必ず戻れ。それだけだ」

「はい。約束しますわ」

 私たちは、それ以上言葉を交わさなかった。それで、十分だった。

「出発!」

 レオの号令で、御者が手綱を引く。荷馬車の重い車輪が、軋むような音を立ててゆっくりと動き出した。私は、馬車の荷台に乗り込み、門の外へと遠ざかっていくアレス様の姿を、いつまでも見つめていた。彼の姿が小さくなるにつれて、私は自分の心を、新しい戦場へと切り替えていった。これから始まるのは、貴族の礼法も、王宮の権威も、何の意味も持たない場所での戦いだ。私の武器は、ただ、この手が生み出す温かい料理だけ。それだけで、あの石のように硬い心を溶かすことができるだろうか。荷馬車は、雪が舞い始めた山道を、ひたすらに登り続けた。

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