第200話 王太后の微笑
王都での全ての公式行事を終え、私たちが北の地へ帰還する日の朝は、冬の光が静かに降り注ぐ、穏やかな日だった。荷造りはとうに終わり、あとは王宮へ最後の挨拶に伺い、この息の詰まる街を後にするだけだ。
出発用のドレスに着替えながら、私は窓の外に広がる王都の壮麗な街並みを見下ろした。ここに来てから、一体どれだけのことがあっただろう。
「準備はできたか」
背後から、アレス様の静かな声がした。いつの間にか、彼も支度を終えて部屋に入ってきていた。私は振り返り、こくりと頷く。
「ええ、いつでも出発できますわ」
「そうか」
彼はそれだけ言うと、私の隣に立ち、同じように窓の外へ視線を向けた。しばらく、二人の間に沈黙が流れる。
「…長かったな」
やがて、彼がぽつりと呟いた。その声には、珍しく微かな感慨のようなものが滲んでいる。
「ええ、本当に。ですが、終わりましたのね」
「ああ。終わった」
彼は、私の顔をじっと見た。その灰色の瞳が、何かを問うように揺れている。
「疲れたか」
その、あまりにも不器用で、まっすぐな問いかけに、私は思わず小さく吹き出してしまった。
「ふふっ。ええ、少しだけ疲れましたわ。早く、私たちの家に帰りたいです」
「そうか」
彼は、私の答えに満足したように短く言うと、そっと私の肩に手を置いた。その、無骨で大きな手の温もりが、これまでの戦いで張り詰めていた私の心の糸を、優しく解きほぐしていくようだった。
「では、行こう。最後の挨拶を済ませて、すぐに発つ」
「はい、アレス様」
私たちは、王都での最後の務めを果たすため、部屋を後にした。
*
国王陛下への挨拶は、ごく事務的なものだった。彼は、最後まで私の顔をまともに見ようとはせず、ただ晩餐会の成功を労う定型句を述べただけだった。だが、それでよかった。私は、彼に認められたいわけではないのだから。
問題は、その後だった。
謁見の間を辞し、王宮の出口へと向かう、長い大理石の回廊を歩いていた、その時。
「お待ちください、アレスティード公爵閣下、並びに夫人」
凛とした、しかしどこか有無を言わせぬ響きを持った声が、私たちの背後からかけられた。振り返ると、そこには数人の侍女だけを伴った王太后陛下が、静かに立っておられた。
「王太后陛下」
アレス様が、即座に片膝をついて礼を取る。私も慌てて、彼の隣で最も深い礼をした。心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。なぜ、この方が、こんな場所に。
「面を上げよ。堅苦しい挨拶は不要じゃ」
許しを得て顔を上げると、王太后の、歳を感じさせない鋭い瞳が、アレス様ではなく、まっすぐに私を射抜いていた。
「息災そうで何よりじゃな、北の料理人よ」
「もったいないお言葉にございます、陛下」
「ふん。口先だけの謙遜は好かぬ。あの晩餐、見事であったぞ」
その、あまりにも直接的な賞賛の言葉に、私はどう返すべきか一瞬迷った。
「身に余る光栄にございます。ですが、わたくし一人の力では…」
「そなたの指揮がなければ、あの夜は王家の恥辱として歴史に刻まれておったであろう。それは、この儂が誰よりもよう分かっておる」
彼女は、私の言い訳をぴしゃりと遮った。そして、一歩、私に近づく。侍女たちが、緊張した面持ちで一歩下がる。回廊には、私とアレス様、そして王太后だけが取り残されたかのようだった。
「礼法の雪解け、か。面白いことを言うた者がおったようじゃな」
「……」
「そなた、あの晩餐で、一体何を壊し、何を作ったと思うておる?」
その問いは、鋭い刃のように、私の心の核心へと突き立てられた。これは、試されている。
私は、一度、深く息を吸った。そして、彼女の射抜くような視線から、逃げずに答えた。
「わたくしは、何かを壊そうなどと、大それたことを考えたわけではございません」
「ほう?」
「ただ、凍えている方々に、少しでも温かいものを召し上がっていただきたかった。それだけです。もし、その行いが、結果として何かを変えたのだとすれば、それはわたくしが作ったのではなく、温かさを求めた皆様の心が、自ら作り出した変化なのだと信じております」
私の答えに、王太后は何も言わなかった。ただ、その瞳の奥で、値踏みするような光が、静かに揺れている。
「伝統とは、守るだけのものではなく、時に見直し、その時代に生きる人々のために磨き上げることで、より強く、未来へと繋がっていくものではないでしょうか」
「小賢しい理屈を申す」
彼女は、ふんと鼻を鳴らした。だが、その声に、怒りの色はなかった。
「そなたの料理と同じじゃな。素朴で、飾り気はないが、妙に、芯がある」
私は、黙って次の言葉を待った。
「良いか。この王宮は、古く、そして冷え切っておる」
その声は、囁くように、しかし、確かな重みを持って、私の耳に届いた。
「伝統という名の分厚い氷の下で、多くのものが、ただ凍りついたまま、時を止めておる。それを溶かすには、生半可な熱では足りぬ」
彼女は、そこで言葉を切ると、その薄い唇の端に、ほんの少しだけ、笑みを浮かべた。それは、あの晩餐会の夜に見せたものよりも、ずっと深く、そして何かを企んでいるような、見る者をぞくりとさせる笑みだった。
*
「そなたのような、行儀の悪い熱源が一つくらいあっても、面白いやもしれぬの」
その、あまりにも不穏な言葉を最後に、王太后は私に背を向けた。そして、一度も振り返ることなく、侍女たちを伴って、回廊の奥へと静かに去っていった。
残されたのは、彼女の言葉が投げかけた、重い余韻だけだった。
「……厄介なものに目をつけられたな」
いつの間にか立ち上がっていたアレス様が、静かに呟いた。その声には、呆れと、警戒と、そしてほんの少しの面白がるような響きが混じっていた。
「ええ、本当に」
私は、王太后が消えていった廊下の先を見つめながら、答えた。私の心臓は、まだ少しだけ速く脈打っていた。だが、それは恐怖からではなかった。
「ですが、少しだけ、わくわくしますわ」
その言葉に、アレス様は何も答えなかった。ただ、私の手を、そっと、取った。彼の、無骨で大きな手の温もりが、私の高ぶった心を、ゆっくりと落ち着かせてくれる。
「帰るぞ」
彼は、私の手を引いて、歩き始めた。




