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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第199話 礼法の雪解け

「美味しい」「これが、温かい料理」「なんと力強い味だ」

 貴族たちのテーブルから聞こえてくる囁き声は、もはや私への侮蔑ではなく、未知の味覚に対する素直な驚きと賞賛に変わっていた。

 その変化は、扉一枚を隔てた厨房にも、燎原の火のように伝播した。

「嘘だろ……陛下が、完食されたぞ」

「見たか? あのジャガイモの焼き菓子も、国王陛下がお召し上がりになった!」

 さっきまで絶望に染まっていた料理人たちの顔に、信じられないといった表情の興奮が広がっていく。彼らは覗き窓に殺到し、大広間の光景を食い入るように見つめている。

「奥様! 次の皿の準備は!」

 一人の若い料理人が、弾かれたように私の元へ駆け寄ってきた。その瞳には、さっきまでの諦観の色はない。代わりに、職人としての純粋な闘志が燃え上がっていた。

「ああ、そうだ! 次の魚料理、あの緑のソースが足りなくなるかもしれん!」

「ジャガイモの追加注文が殺到しているぞ! どうするんだ!」

 混沌とした状況は変わらない。だが、その質は全く異なっていた。絶望ではなく、希望に満ちた喧騒が、厨房を再び支配し始めたのだ。

 最初に私を嘲笑っていた古参料理人が、いつの間にか私の隣に立っていた。彼は、ぶっきらぼうに、しかし、その声には隠しきれない興奮を滲ませて尋ねてきた。

「…おい、北の奥様。あの、ジャガイモの焼き菓子だが、追加の注文が殺到している。予備の材料はもうない。どうする」

 その問いかけに、私は彼をまっすぐに見つめ返した。そして、静かに、しかし確信を持って答えた。

「貯蔵庫にある根菜を、全て持ってきなさい。同じように薄切りにして、チーズを挟んで焼きます」

「なっ、ジャガイモ以外の根菜だと? そんな無茶な!」

「無茶ではありません。今日は、歴史が変わる日なのですから。これまでの常識は、一度全て忘れなさい」

 私のきっぱりとした言葉に、彼は一瞬だけ絶句した。しかし、やがて何か吹っ切れたように、その口元に獰猛な笑みを浮かべた。

「…面白い。やってやろうじゃないか。おい、お前ら! 貯蔵庫の蕪と人参を、根こそぎ持ってこい!」

 彼の号令で、厨房は再び戦場と化した。だが、そこにいるのはもはや烏合の衆ではない。私の指揮の下、一つの目的のために動く、精鋭の部隊だった。



 晩餐会が、終盤に差し掛かった頃。私は厨房の隅で、後片付けの指示を出しながら、壁に背を預けていた。心地よい疲労感が全身を包んでいる。即興で作った根菜のグラタンも、貴族たちから驚きと共に絶賛されたと、給仕長が興奮気味に報告してくれた。

 ふと、大広間の方へ視線を向ける。遠くのテーブルで、アレス様が静かにワイングラスを傾けているのが見えた。彼は、周囲の喧騒から切り離されたかのように、ただ一人、落ち着き払っている。その視線が、ふと、こちらに向けられた。厨房の、薄暗い覗き窓の中にいる私を、正確に捉えている。

 ほんの一瞬、視線が交錯した。彼は、表情こそ変えなかったが、その灰色の瞳が、確かに、ほんの少しだけ和らいだように見えた。言葉はない。だが、それで十分だった。彼の無言の労いが、疲れた私の心に、温かいものを注ぎ込んでくれる。

 その時だった。厨房の入り口に、一つの人影が現れた。その人物の姿を認めた瞬間、あれほど騒がしかった厨房の全ての音が、ぴたりと止んだ。

 そこに立っていたのは、典礼長官バルトーク侯爵、その人だった。



 彼は、侍従も伴わず、ただ一人で立っていた。その背筋は相変わらずまっすぐに伸びている。だが、その顔からは血の気が失せ、まるで十年は歳を取ったかのように、深い疲労の色が刻まれていた。

 料理人たちが、壁際に張り付くようにして、彼のために道を空ける。彼は、その間を、ゆっくりとした、しかし確かな足取りで歩いてきた。そして、私の目の前で、足を止めた。

 厨房にいる誰もが、息を殺して、次の瞬間を待っていた。これから、私にどんな弾劾の言葉が投げつけられるのか。誰もが固唾を飲んで見守っている。

 長い、長い沈黙だった。やがて、彼は、ゆっくりと口を開いた。

「公爵夫人」

 その声は、ひどくかすれていた。

「……いや、レティシア殿」

 彼は、そう言い直すと、私に向かって、ゆっくりと、しかし、深く、その頭を下げた。

 その、信じがたい光景に、厨房のあちこちから、押し殺したような驚きの声が漏れた。

「今日の晩餐、見事であった」

 顔を上げた彼の瞳には、もはや私への敵意はなかった。代わりに、深い悔恨と、そして職人に対する純粋な敬意の色が浮かんでいた。

「わたくしは、伝統という名の壁に目を曇らされ、物事の本質を、完全に見誤っていたようだ」

「侯爵閣下…」

「貴女が守ろうとしていたのは、伝統への反逆などではなかった。陛下の御身の安全と、そして何より、食事が持つ本来の力だった。人を温め、活力を与えるという、我々が忘れかけていた、最も重要な真実を」

 彼の、あまりにも率直な告白に、私は言葉を失った。

「この一件、わたくしの責任において、正式な記録として陛下に報告するつもりだ。そして」と彼は続けた。「今後の宮廷儀礼における食事の在り方について、再検討することを、陛下に正式に進言する」

「よろしいのですか、閣下。それは、あなたのこれまでの全てを、否定することに…」

「構わん」

 彼は、静かに、しかし、きっぱりと言い切った。

「伝統とは、ただ頑なに守り続けるだけの、石碑ではない。時代に合わせて、より良いものへと変えていくべき、生きた道筋のようなものだ。今日、貴女が、この老いぼれに、それを教えてくれた」

 彼は、そう言うと、満足したように小さく頷いた。そして、私に背を向けると、来た時と同じように、静かな足取りで厨房を去っていった。

 彼の後ろ姿が扉の向こうに消えた後も、厨房は、しばらくの間、深い沈黙に包まれていた。



 それから、数日後のことだった。王都での全ての公式行事を終え、私たちが北の地へ帰還する、まさにその日の朝。ブランドンが、一枚の羊皮紙を手に、私の部屋を訪れた。その羊皮紙には、王家の紋章と共に、典礼省の正式な印が押されている。

「奥様、王宮の典礼省より、王国全土の貴族家へ向けた、公式通達の写しでございます」

 私は、その羊皮紙を受け取った。そこに記されていたのは、簡潔な、しかし、この国の歴史を永遠に変える、重い一文だった。


『王家主催の公式行事において、今後は、主催者の裁量と責任の下、一部、温かい料理を提供することを、特例として認める』


 長年、この王国を縛り付けてきた「冷製主義」という分厚い氷の礼法が、公式に、雪解けを始めたのだ。私が北の地で始めた、たった一杯の温かいスープから始まった革命が、ついに、この国の中心を、確かに動かした。

 私は、その通達を手に、窓の外に目を向けた。冬の朝の、冷たく澄んだ空気が、頬に心地よい。

「王都も、少しは温かくなるかもしれませんわね」

 私の独り言のような呟きに、いつの間にか部屋に入ってきていたアレス様が、静かに答えた。

「お前がいるからな」

 その、あまりにも短い言葉の中に込められた意味を、私はもう、痛いほど理解していた。私たちは、言葉を交わすことなく、ただ、窓の外に広がる王都の街並みを、静かに見つめていた。

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