第19話 一枚の提案書
夜警の兵士たちが作ってくれた、不格好なビスケット。私はそれを自室の机の上に一つ置き、静かにインク壺の蓋を開けた。
これまで私がこの屋敷で行ってきたことは、全て場当たり的なものだった。冷たい食事への反発、兵士たちの士気への懸念、目の前の無駄への義憤。一つ一つは小さな行動だったけれど、それらが積み重なり、屋敷の空気は確実に変わり始めていた。
しかし、それだけでは足りない。
私がここにいなくなれば、この温かい変化はすぐに元に戻ってしまうだろう。個人の善意に頼る改革は、あまりにも脆い。本当にこの家を変えるには、それを支える「規律」そのものを書き換える必要があった。
私はペンをとり、真っ白な羊皮紙に向かう。
前世、会社員として来る日も来る日も向き合ってきた、報告書と提案書の数々。あの息の詰まるような日々で培ったスキルが、今、こんな形で役に立つなんて皮肉なものだ。
まずは、客観的な事実を数字で示す。
厨房改革による経費削減率。保存庫の廃棄食材を再利用したことによる、具体的な削減金額。兵舎の食堂責任者から取り寄せた、炊き出し後の兵士たちの訓練成績向上データ。侍医に協力を仰ぎ、匿名で記録してもらった公爵閣下の睡眠時間の変化。
一つ一つの数字が、私の行動の正しさを雄弁に物語っていた。感情論では、決して動かない人たちを説得するための、最強の武器。
そして、それらのデータを元に、私は本題を書き記していく。
『公爵家公式食事規定の改定案』
目的は、伝統の完全否定ではない。それでは、ただの反逆にしかならない。私が目指すのは、共存と進化だ。
要点は三つ。
一つ、公式な賓客を招く晩餐会などにおいては、伝統的な冷製様式を維持する。これは、家の品位と歴史への敬意を示すため。
二つ、公爵と家人、使用人の日常的な食事においては、健康と実利を最優先し、温かい食事を基本とする。これは、家の活力と生産性を維持するため。
三つ、厨房の予算管理と献立作成の権限を、正式に公爵夫人に移譲する。ただし、その実績は執事長が四半期ごとに査定する。
それは、古い伝統と新しい価値観を繋ぐ、橋のような提案書だった。氷のように冷たく硬直した規律に、人の体温という血を通わせるための、静かな革命の設計図。
最後の文字を書き終えた時、窓の外は白み始めていた。机の上のビスケットが、夜明けの光を浴びて、静かに私を見守っているように思えた。
*
その日の午後、私は執事長のブランドンに面会を求め、彼の執務室を訪れた。部屋には、先客がいた。苦虫を噛み潰したような顔で椅子に座る、家令その人だった。ブランドンが、彼も同席させたのだろう。
「奥方、お待ちしておりました」
ブランドンはいつもと変わらない落ち着いた声で私を迎え、席を勧めた。家令は、私を一瞥すると、ふいと顔をそむける。
私は挨拶もそこそこに、懐から折り畳んだ羊皮紙を取り出し、重厚な執務机の上にそっと広げた。
「本日は、お二人にご提案があり、参りました」
ブランドンは黙って羊皮紙に視線を落とし、家令も訝しげにそれを覗き込む。二人の間に、緊張が走った。
私は、そこに書かれた内容を、一つ一つ冷静に、そして淡々と説明していく。経費削減の実績。兵士たちの士気向上。そして、公爵の健康状態の改善。感情を一切排し、事実と数字だけを積み重ねていく。
「……以上の理由から、私は公爵家の食事規定を、このように改定すべきだと考えます」
私が最後の言葉を結ぶと、部屋は静寂に包まれた。
先に沈黙を破ったのは、家令だった。
「馬鹿な……!伝統をなんだと心得る!日常の食事までそのような南方風の軟弱なものに変えてしまえば、アレスティード公爵家の厳格さは失われてしまう!」
彼の声は、怒りよりも焦りに震えているように聞こえた。それは、自らがよって立つ足場が、根底から崩れ去ろうとしていることへの恐怖。
私は、彼に視線を向けた。
「ではお尋ねします。あなたの言う『厳格さ』とは、具体的にどのような利益をこの家にもたらしたのですか?主人の健康を損ない、兵の士気を下げ、食材を無駄にすることが、この家の伝統なのですか?」
「そ、それは……言葉の綾だ!品位というものは、数字で測れるものではない!」
「ええ、そうでしょうね」と私は静かに頷く。「ですが、損失は数字で測れます。私が提示しているのは、その損失をいかにして利益に転換するか、という具体的な方法です」
家令は「ぐっ」と喉を詰まらせ、反論の言葉を探すように視線を彷徨わせた。しかし、羊皮紙の上に並んだ非情なまでの数字が、彼の言葉を全て封じ込めていた。
先日、彼の失態を庇った一件も、静かに効いているようだった。私をただの敵として憎むには、彼の中にも小さな貸しがある。その事実が、彼の抵抗を鈍らせていた。
全てのやり取りを黙って聞いていたブランドンが、ゆっくりと口を開いた。
「家令。君の家の伝統を重んじる気持ちは理解できる。だが」
彼は指で、提案書の一文をなぞった。
「奥方のこの案は、伝統を否定するものではない。むしろ、守るべきものと変えるべきものを明確に分けることで、伝統そのものを未来へ繋げようとするものだ。私にはそう思える」
それは、決定的な一言だった。
執事長という、この屋敷の実務の最高責任者からの、全面的な支持表明。
家令の肩が、がっくりと落ちた。彼の顔には、屈辱と、そしてほんの少しの諦めが浮かんでいた。それは、時代の流れには逆らえないと悟った人間の顔だった。彼はもはや、何も言わなかった。
*
ブランドンは提案書を丁寧に折り畳むと、立ち上がった。
「この件、確かにお預かりいたします。最終的な判断は、無論、閣下が下される」
「よろしくお願いいたします」
私は深く一礼し、執務室を後にした。扉が閉まる直前、ブランドンが家令に何か低い声で話しかけているのが聞こえたが、その内容は分からなかった。
廊下を歩いていると、後ろから一人の侍従が、私が今しがた提出した提案書を革のファイルに挟み、恭しく捧げ持って追い越していく。彼の向かう先は、一つしかない。この屋敷の主、アレスティード公爵の執務室だ。
私は思わず足を止め、その背中を見送った。
あの一枚の羊皮紙が、この冷たい屋敷の未来を決める。
私が求めたのは、静かな自由。誰にも我慢を強いられない、穏やかな日々。そのために、私は厨房に立ち、人と向き合い、そして今、規律そのものに手を伸ばした。
これで、良かったのだろうか。
ふと、不安が胸をよぎる。契約上、私はあくまで「お飾りの妻」。家の内情にここまで深く干渉することは、彼の不興を買うかもしれない。
侍従の姿が、廊下の角に消えていく。
私の静かな革命の成否は、今、あの氷のような瞳を持つ、一人の男の手に委ねられた。
私は小さく息を吐き、再び歩き出した。どちらに転んでも、後悔はない。
もう二度と、我慢なんてしないと決めたのだから。




