第1話 食卓と宣戦布告
重厚なマホガニーの机を挟み、私は背筋を伸ばして椅子に座っていた。
目の前には、この国の北方を治めるアレスティード公爵閣下。そして、一枚の羊皮紙。婚姻契約書だ。
「条項の確認を」
氷を削って作ったような、硬質で低い声が響く。執事長らしき初老の男性が、契約書の内容を淡々と読み上げていく。
一、互いの私生活に干渉しないこと。
二、公務への同行は、必要と判断された場合のみとすること。
三、世継ぎを儲ける義務は負わないこと。
四、契約期間は一年とし、双方の合意がなければ自動的に解消されること。
完璧だ。これ以上ないほど、私にとって都合のいい条件だった。
実家であるラトクリフ伯爵家が、私の存在を持て余しているのは知っていた。魔力が不安定な異母妹のセシリアは、私の持つ希少な「温導質」――触れたものの魔力循環を穏やかに整える体質――に依存していた。私がそばにいれば、彼女の魔力暴走は抑えられる。しかし、その負担はすべて私にのしかかる。絶え間ない疲労と倦怠感。それを訴えても、家族は「我慢が足りない」と取り合わなかった。
だが、ついに私の我慢が限界を超え、無意識に供給を遮断したらしい。セシリアの魔力は荒れ狂い、屋敷の調度品をいくつも破壊した。そこで家族が下した結論は、「役に立たなくなった長女の厄介払い」だった。
その相手が、よりにもよって「血も涙もない氷の公爵」と噂されるアレスティード閣下だったのは、皮肉としか言いようがない。おそらく、断れないようにという嫌がらせも兼ねていたのだろう。
けれど、私にとっては好都合だった。これでようやく、あの息の詰まる家から合法的に出られる。静かな場所で、誰にも干渉されず、ただ自分のためだけに時間を使う自由が手に入るのだ。
「――以上です。レティシア様、ご質問は?」
「ございません。結構です」
私は迷わず頷いた。
目の前の公爵は、噂に違わぬ人だった。銀色の髪は月光を編んだかのようで、アイスブルーの瞳は感情というものを映さない。彫刻のように整った顔立ちは、人間味というものを感じさせなかった。彼もまた、面倒な縁談を避けるための方便として、没落寸前の伯爵家から形ばかりの妻を娶ることにしたのだろう。利害の一致。結構なことだ。
差し出された羽根ペンを手に取り、インク壺に浸す。そして、レティシア・ラトクリフ、と震えのない文字で署名した。これで私は、レティシア・アレスティード。一年限りの、仮初めの公爵夫人だ。
「よろしく頼む、夫人」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします、閣下」
形式的な挨拶を交わす。彼の瞳には、私という存在に対する興味も関心も、ひとかけらも映っていなかった。それでいい。それがいい。
私は「いい子」の仮面を、この書斎の床に静かに脱ぎ捨てた。
*
公爵邸での最初の晩餐は、その静けさにおいて葬儀のようだった。
磨き上げられた長いテーブルの両端に、私と公爵がぽつんと座る。途方もない距離だ。窓の外はすでに夜の闇に沈み、室内に灯る魔導ランプの光だけが、銀食器を鈍く光らせていた。
「……」
「……」
会話はない。ただ、カトラリーが皿に触れる、かすかな音だけが響く。
やがて、最初の皿が運ばれてきた。見た目は完璧な、澄んだコンソメスープ。しかし、口に含んだ瞬間、私は思わず眉をひそめそうになった。
ぬるい。
いや、ぬるいというより、冷めている。生命の温もりが完全に失われた液体。それは、前菜として出された魚のパイも、メインの鹿肉のローストも同じだった。どれもこれも、調理されてから長い時間が経ったかのように、魂まで冷え切っている。
公爵は、その冷たい食事を、表情一つ変えずに口へ運んでいた。まるで、決められた儀式をこなすように。
その光景を見て、不意に前世の記憶が蘇った。
終電間際、疲れ切った体で駆け込んだコンビニで買った、冷たい弁当。それを会社のデスクで、味も分からずに胃に詰め込んでいた日々。いつも胃が痛くて、心はささくれ立って、それでも「大丈夫です」と笑っていた。我慢して、我慢して、その果てに待っていたのは、あっけない過労死だった。
もう、二度と。
二度と、あんな真似はするものか。
我慢は、もうしない。
私の持つ「温導質」は、人の魔力の流れを敏感に感じ取る。目の前の公爵の体内では、魔力が澱み、冷たく滞っているのが分かった。おそらく、長年こんな食事を続けてきたせいだろう。これでは、心身ともに健やかでいられるはずがない。
カチャン。
私が静かにナイフとフォークを皿の上に置くと、その小さな音は、だだっ広いダイニングルームにやけに大きく響いた。
公爵が、初めて私の方へ視線を向けた。感情の読めないアイスブルーの瞳が、私をまっすぐに見ている。傍に控えていた家令が、咎めるような視線を向けてくるのが分かった。
構わない。
私はゆっくりと口を開いた。
「閣下」
静かだが、よく通る声が出た。
「このお食事は、体に毒です」
*
私の言葉に、ダイニングルームの空気が凍りついた。
いや、元から凍っていた空気に、さらに亀裂が入ったような感覚だった。
「なっ……!」
最初に反応したのは、公爵の背後に控えていた白髪の家令だった。「何を無礼なことを!」と、その顔にはっきりと書いてある。
「失礼いたしました、奥方様。ですが、この晩餐は公爵家の厳格なる礼法に則った、正式なものでございます。閣下は長年、この形式でお食事を摂られております」
家令は早口に、しかし威圧感を込めて言った。私を、何も知らない田舎貴族の娘だと侮っているのが透けて見える。
だが、その程度のことで怯む私ではない。
「礼法、ですか」
私は静かに問い返した。
「礼法で、人の体は温まるのでしょうか」
「……は?」
「これは食事ではありません。ただの儀式です。命を繋ぐための温かさも、心を慰めるための味も、ここには何もありません。こんなものを食べ続けていれば、いずれ体を壊します。いえ、おそらくもう、閣下のお体は悲鳴を上げているはずです」
私の視線は、真っ直ぐに公爵に向けられていた。
彼の氷の仮面が、ほんのわずかに、本当にわずかに揺らいだのを、私は見逃さなかった。アイスブルーの瞳の奥に、一瞬だけ驚きとも困惑ともつかない光が宿る。
家令が「お、奥方様!不敬ですぞ!」と声を荒らげるが、もう私の耳には入らなかった。
私はすっと席を立ち、背後の扉、厨房へと続く道を見据えた。
「静かな自由を求めて、ここへ参りました。契約通り、閣下の私生活に干渉するつもりは毛頭ございません。ですが、これは最低限の生存に関わる問題です」
家令の制止を背中で感じながら、私は一歩、また一歩とダイニングルームを横切る。
「厨房をお借りします」
振り返らずに、私は宣言した。その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「明日から、お食事は私がご用意いたします。ご迷惑はおかけしません。ただ、温かいものを、お出しするだけですので」
扉の前で一度だけ足を止め、私は氷の公爵を一瞥した。
彼は何も言わず、ただ、その感情の読めない瞳で、私という闖入者をじっと見つめていた。
それで十分だった。
私は扉を開け、冷たく静まり返った廊下へと足を踏み出す。
私の静かな革命は、この一杯の冷めたスープから始まるのだ。