第197話 国王の沈黙
最後の皿が、給仕の銀盆の上に置かれる。厨房を満たしていた熱気と喧騒が、嘘のように引いていった。壁の時計の針は、晩餐会の開始時刻を無情にも指し示している。
「時間です。運びなさい」
私の静かな声に、給仕長が緊張した面持ちで頷いた。その額には、玉のような汗が光っている。
「よろしいのですか、奥様。本当に、このお料理を…」
「もう後戻りはできません。胸を張って、お客様の元へ届けてください」
私のきっぱりとした言葉に、彼は意を決したように深く一礼した。彼の合図で、給仕たちが次々と銀盆を手に、厨房の扉の向こうへと消えていく。その背中を見送りながら、厨房に残された料理人たちの間に、重い沈黙が落ちた。
「大丈夫だろうか…」
「国王陛下がお怒りにならなければいいが…」
不安げな囁きが、壁際から聞こえてくる。さっきまで私を嘲笑っていた古参料理人でさえ、今は顔面蒼白で唇を固く結んでいた。この即興の献立が失敗すれば、その責任の一端は自分たちにも及ぶ。彼らはようやく、自分たちがただの傍観者ではないことに気づいたのだ。
*
私は厨房の隅、給仕たちが出入りする扉の小さな覗き窓から、大広間の様子を窺っていた。シャンデリアの眩い光、着飾った貴族たちの宝石のきらめき、そして、遠く玉座に座る国王陛下の、表情の読めない横顔。
最初に運ばれていったのは、冷製の魚料理に、私がピストゥーソースと名付けた緑のソースを添えた一皿だった。
「まあ、なんて鮮やかな緑色でしょう」
「このソース、ハーブの香りが素晴らしいわ。今まで口にしたことのない味だ」
貴婦人たちのテーブルから、驚きとも賞賛ともつかぬ声が微かに聞こえてくる。次に運ばれた、ジャガイモとチーズを重ね焼きにした一品も、同様だった。
「これはジャガイモか? だが、まるで上等な菓子のように、濃厚で奥深い味わいだ」
「一体どうやって作ったのだ。火が使えなかったはずなのに」
囁き声が、さざ波のように広がる。悪くない反応だ。しかし、誰もが国王陛下の玉座から目を離そうとはしなかった。この晩餐会の成否は、ただ一人、彼の判断に委ねられている。
「奥様、次です」
そばに控えていた若い料理人の声が、震えていた。
ついに、その時が来た。給仕長が、自ら銀盆を捧げ持つ。その上には、たった一つの銀の器。白い湯気を立てる琥珀色のポタージュが、国王陛下の前に、静かに置かれた。
広間の全ての音が、死んだ。
さざめいていた貴族たちの会話も、遠くで奏でられていた楽団の演奏も、まるで世界から音が消え失せたかのように、ぴたりと止んだ。全ての視線が、玉座の前の、その小さなスープ皿に注がれている。
*
国王は、その白い湯気の立つスープを、無表情に一瞥した。数秒だったか、数分だったか。誰もが息を殺して見守る中、彼は、銀のスプーンを取る代わりに、隣に控える侍従長に問いかけた。
その声は低く、しかし、大理石の床を這うように広間全体へ響き渡った。
「余は、いつから、建国の伝統を違えることを許した覚えがあるのか」
その一言で、場の空気は完全に凍りついた。
貴族たちの顔から、さっきまでの好奇の色が消え、恐怖と畏怖が浮かび上がる。最前列の席にいたバルトーク典礼長官は、血の気を失い、顔面蒼白になって俯いている。彼の震える指先が、テーブルクロスを固く握りしめているのが、遠目にも分かった。
私の背後で、息を呑む音がした。振り返ると、覗き窓から同じ光景を見ていた厨房の料理人たちが、まるで石になったかのように固まっていた。彼らの瞳に浮かんでいるのは、たった一つの感情。絶望だった。
「ああ……終わった」
誰かが、か細い声で呟いた。その声は、この場にいる全員の心の声を代弁していた。
私は、唇を強く噛みしめた。鉄の味が、口の中にじわりと広がる。アレス様の顔が、脳裏をよぎった。私は、彼の、そしてアレスティード公爵家の名誉に、取り返しのつかない泥を塗ってしまったのかもしれない。




