第194話 揺らぐ天秤
バルトーク侯爵は、私が差し出した分厚い報告書を、まるで異国の気味の悪い虫でも見るかのような目で一瞥した。彼はその書類に指一本触れようとせず、ただ椅子に深く腰掛けたまま、冷ややかに口を開いた。
「公爵夫人、これは一体何の冗談ですかな。わたくしは貴女に、伝統に則ったメニュー案を提出しろと命じたはずだ。このような、数字とインクの羅列に何の意味がある」
「冗談ではございません、侯爵閣下」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「そこに書かれているのは、わたくしの個人的な見解ではなく、客観的な事実です。どうか、一度お目通しください」
私の揺るぎない態度に、彼は侮蔑の色を隠そうともせずに、やむを得ないといった様子で報告書の表紙を指先でつまみ上げた。その仕草は、まるで汚れたものに触れるかのようだった。
*
侯爵の執務室には、羊皮紙が乾いた音を立ててめくられる音だけが響いていた。最初は嘲笑うように頁をめくっていた彼の表情が、徐々に変化していくのを私は見逃さなかった。
眉間に刻まれた皺が、深くなっていく。唇が、真一文字に固く結ばれる。そして、アレスティード領の軍医がまとめた、過去十年間の食中毒発生事例に関する統計データの頁で、彼の指がぴたりと止まった。
そこには、冷製調理と加熱調理における食中毒のリスクが、残酷なまでに明確な数字で比較されていた。彼の天秤が、今、揺れ動いているのが分かった。片方には、彼が生涯をかけて守り続けてきた数百年の「伝統」。そしてもう片方には、彼が王家に誓った絶対の忠誠、すなわち「国王陛下の御身の安全」。
私はただ黙って、彼の判断を待った。焦りも期待も、今は無意味だ。私が投げた石が、彼の揺るぎない世界にどのような波紋を広げるのか、見届けるしかなかった。やがて彼は、全ての頁に目を通し終えると、報告書を静かに閉じた。そして、顔を上げることなく、低い声でただ一言、告げた。
「……下がれ。考える時間が必要だ」
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それから数日間、バルトーク侯爵からの呼び出しはなかった。宮廷厨房の空気は、以前にも増して重く、冷たく張り詰めている。私が厨房に姿を見せても、料理人たちは私を存在しないもののように扱い、誰一人として口を開こうとしなかった。彼らは、典礼長官が下すであろう最終審判を、息を殺して待っているのだ。
そして、五日目の昼過ぎ。ついに侍従が私の部屋を訪れ、侯爵からの呼び出しを告げた。
再び足を踏み入れた執務室で、私を待っていた彼の顔には、この数日間で一気に老け込んだかのような、深い疲労と苦悩の色が浮かんでいた。机の上には、私が提出した報告書が、まるで何度も読み返されたかのように、少しだけ縁が擦り切れて置かれている。
彼は、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。その声は、ひどくかすれていた。
「……前菜の一品だけだ」
私は、息を呑んだ。
「それも、スープのような液体に限る。固形物は認めん。それ以上は、断じて譲歩できん」
彼の言葉は、まるで石を吐き出すかのように、重々しかった。
「わたくしは、王家の典礼長官である。伝統を死守するのが、第一の職責だ。だが」と彼は続けた。「それと同時に、陛下の御身の安寧を預かる最高責任者でもある。貴女が提出した報告書は、そのわたくしの職責に対し、看過できぬ問題を突き付けた」
彼は、初めて私の目をまっすぐに見た。その瞳の奥には、伝統の守護者としての矜持と、忠実な臣下としての苦悩が、激しくせめぎ合っていた。
「万が一、陛下の御身に何かあれば、その全責任はアレスティード公爵家が取るということで、よろしいな」
それは、彼の最後の抵抗であり、私への最終確認だった。
「もちろんです、侯爵閣下」
私は、きっぱりと答えた。
「その責は全て、このわたくしが負います」
私のその言葉を聞くと、彼はまるで全身の力が抜けたかのように、深く椅子に背を預けた。そして、疲れたように目を閉じると、手で私を退室させるよう合図した。




