第191話 王笏の招待状
過去が、暖炉の灰となって完全に消え去ってから、北の地には静かで穏やかな冬の時間が流れていた。私は公会の運営に追われる日々を送っていた。奨学金制度の設立、新しい加盟店のための衛生管理講習、そして冬場の保存食を活用した新メニューの開発。目の前にはやるべきことが山積しており、その一つ一つを片付けていく作業は、私に確かな手応えと、心地よい疲労を与えてくれた。
この平穏が、ずっと続くかのような錯覚に、私は確かに陥っていたのだ。
その日、私が公会本部の執務室で帳簿の確認作業に没頭していると、執事長のブランドンが珍しく慌てた様子で部屋に入ってきた。その手には、見慣れた公爵家の紋章が入ったものではない、一通の荘厳な書簡が握られていた。
「奥様、王都より、国王陛下からの公式書簡でございます」
彼の声は、緊張で硬くなっている。私はペンを置くと、その書簡を静かに受け取った。厚手の上質な羊皮紙。そして、封を閉じているのは、アレスティード家の紋章よりも遥かに格上の、王笏と金獅子の意匠が刻まれた、重々しい金色の封蝋だった。
予感はあった。王宮での晩餐会の後、王太后陛下が見せたあの意味ありげな微笑。あれが、ただの挨拶でないことは分かっていた。私はペーパーナイフで慎重に封を切り、折り畳まれた羊皮紙を広げた。
*
その夜、私は書斎でアレス様と二人きりだった。テーブルの中央には、昼間届けられたその招待状が置かれている。暖炉の炎が、羊皮紙に記された流麗な文字を、ゆらゆらと照らし出していた。
内容は、私の予想を遥かに超えるものだった。
来るべき建国記念祭の祝賀晩餐会。その、王国で最も重要かつ大規模な饗宴の、全てのメニューと調理を統括する責任者として、アレスティード公爵夫人レティシアを、国王陛下の名において正式に任命する、と。
それは、地方貴族の妻が受けるには、あまりにも破格の栄誉だった。しかし同時に、最も危険な戦場への、片道切符でもあった。
「これは、王太后陛下の、極めて強いご推薦によるものだろう」
沈黙を破ったのは、アレス様だった。彼は、その文面から、宮廷内の権力図の変化を冷静に読み解いていた。
「宮内卿オルダスが失脚し、王宮内に生まれた権力の空白を、改革派が埋めようとしている。その象徴として、お前が選ばれたのだ」
彼の分析は、いつも通り正確で、そして冷徹だった。これは名誉ではない。宮廷内の派閥争いの、最も目立つ駒として私を使うという、高度な政治判断の結果だ。
「だが、これは罠でもある。冷製派の残党は、お前をその本拠地で叩き潰し、改革派の動きを封じる、絶好の機会だと考えているはずだ」
アレス様は、そこで一度言葉を切ると、私の顔をじっと見た。その灰色の瞳は、真剣そのものだった。
「断ることもできる。病気を理由にすれば、誰も咎めはせん」
彼の言葉は、私への気遣いだった。この危険な役目を、私に無理強いするつもりはないという、パートナーとしての意思表示。
私は、彼の視線をまっすぐに受け止めた。そして、迷わず静かに首を振った。
「いいえ」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「これは、わたくしたちが北の地で始めた戦いの、最終幕ですわ。ここで逃げれば、私たちがこれまで築き上げてきた全てが、ただの地方の流行りで終わってしまう」
私は立ち上がると、テーブルの上の招待状を、そっと手に取った。
「お受けいたします」
その決意の言葉に、アレス様は何も言わなかった。ただ、深く、静かに頷いた。彼のその無言の肯定こそが、これから始まる最後の戦いにおける、何よりも力強い援護射撃だった。
ブランドンが、王都へ向かうための準備を始めるよう、侍従たちに指示を出す声が、扉の向こうから微かに聞こえてきた。




