第189話 情とルール
マーサが去った後の応接室は、ひどくがらんとして感じられた。テーブルの上には、彼女が一口もつけなかったティーカップが、冷たいまま残されている。私は、自分の右手をじっと見つめた。先ほどまで、マーサの皺だらけの手に包まれていたはずの場所。彼女の涙の熱が、まだそこに残っているような気がした。しかし、私の指先は氷のように冷たいままだった。
喜びも、達成感も、そして彼女の涙に対する同情さえも、私の心には湧き上がってこなかった。ただ、一つの法的手続きが完了し、その結果として当然の権利が執行されたという、無機質な事実だけがそこにある。その事実を認識する自分の心が、まるで磨き上げられたガラスのように、どこまでも平坦で、冷たいことに気づいてしまった。
私は人の心を失ってしまったのだろうか。
かつて「いい子」でいるために、自分の感情を押し殺し続けた代償として、今や、何も感じることのできない、空っぽの人形になってしまったのではないか。その静かな恐怖が、足元からゆっくりと這い上がってくるようだった。
*
その夜、私は書斎の暖炉の前で、アレス様と二人きりだった。彼は執務を終え、深い肘掛け椅子に腰を下ろして、揺れる炎を静かに見つめている。私も彼の隣の椅子に座り、カップに入った温かいハーブティーを、ただ黙って飲んでいた。
昼間の出来事が、ずっと胸につかえていた。マーサの涙に濡れた瞳。そして、何も感じなかった私自身の冷たい心。このまま、この疑問を自分の中に閉じ込めておけば、それはやがて、私という人間そのものを内側から蝕んでいくかもしれない。
意を決して、私は口を開いた。
「アレス様。本日、わたくしを訪ねてきた客人がおりました」
彼は、炎から視線を外さずに、静かに私の言葉を促した。私は、マーサの訪問と、元使用人たちへの賠償金支払いが完了したことを、淡々と報告した。そして、最も打ち明けるのが怖かった、私自身の内面について、言葉を探しながら続けた。
「マーサは、わたくしに何度も感謝の言葉を述べました。彼女の涙は、本物でした。ですが」
私は一度、言葉を切った。喉が、乾いている。
「わたくしは、何も感じなかったのです。嬉しいとも、可哀想だとも思いませんでした。ただ、一つの手続きが終わった、としか。…わたくしは、人の心を失ってしまったのでしょうか」
その最後の問いは、ほとんど囁きに近かった。それは、アレス様に向けた問いであると同時に、私自身に向けた、最も恐ろしい問いかけでもあった。
書斎には、暖炉の薪がぱちりと音を立ててはぜる音だけが響いていた。長い沈黙だった。彼が、私のこの告白をどう受け止めるのか、見当もつかなかった。軽蔑されるかもしれない。あるいは、ただの感傷だと、一蹴されるかもしれない。
やがて、彼はゆっくりと、私の方へ顔を向けた。その灰色の瞳は、いつものように静かだったが、その奥に、私の心の奥底まで見通すような、深い光が宿っていた。
「違う」
彼の声は低く、しかし、確信に満ちていた。
「お前は、人の心を失ったわけではない」
彼は、そこで一度言葉を切ると、再び視線を暖炉の炎に戻した。まるで、これから語るべき言葉を、揺れる炎の中から選び出しているかのように。
「お前は、無分別な情に溺れることの危険性を、誰よりもよく知っている。情は時に人を救うが、時に判断を曇らせ、より多くの者を、より深い不幸に陥れることがある。ラトクリフ伯爵家が、まさしくそうだった」
彼の言葉は、私の過去を、正確に貫いていた。
「そして、お前はもう一つのことも知っている。公平なルールというものが、いかに冷徹に見えようとも、結果として、最も多くの人間を、最も正しく守るということを。お前がやったのは、まさしくそれだ」
彼は、再び私に視線を戻した。その瞳は、もう揺らいではいなかった。
「情に流されず、ルールを執行した。それに対して、何も感じなかったとすれば、それはお前の心が冷たいからではない。お前の判断が、個人の感情ではなく、より大きな正義に基づいていたという、何よりの証拠だ」
彼の言葉は、魔法ではなかった。それは、どこまでも論理的で、冷静な分析だった。しかし、その言葉の一つ一つが、私の心の中にあった、冷たくて暗い霧を、静かに晴らしていくようだった。
「それは、冷たさではない」と彼は、静かに、しかし、きっぱりと言い切った。「むしろ、それこそが、多くの人間の生活を預かる、統治者に必要な、最も重要な資質だ」
統治者の資質。その、あまりにも大きな言葉が、私の胸にすとんと落ちた。
私は、間違ってはいなかったのだ。私のこの、何も感じない心は、欠陥なのではなく、私がこの場所で生きていくために、そして、より多くのものを守るために、必然的に手に入れた、新しい強さの形なのかもしれない。
私は、深く、息を吸い込んだ。胸のつかえが、いつの間にか消えていることに気づく。
「……ありがとうございます、アレス様」
ようやく絞り出した私の声は、少しだけ、震えていた。彼は、私の感謝の言葉には答えなかった。ただ、無言で立ち上がると、空になった私のカップを手に取り、新しいハーブティーを淹れるために、静かに部屋を出ていった。




