第18話 夜警のお守りと見えない忠誠
執事長の執務室を出た私の足は、迷わず厨房へ向かっていた。
窓の外では、すでに陽が傾き始めている。北の長い夜が、もうすぐこの屋敷を包み込む。そして、その闇と寒さの中で、人々を守るために立ち続ける者たちがいる。
夜警の兵士たち。彼らの仕事の過酷さは、先日兵舎を訪れた時に嫌というほど理解した。凍えるような空気、身を切るような風、そして忍び寄る眠気。彼らはそれを、気力と体力だけで耐え凌いでいる。
我慢は美徳ではない。それは、心と体をすり減らすだけの悪習だ。
実家では、妹の魔力供給のために夜通し付き添うこともあった。冷たい床の上で、ただひたすら我慢を強いられたあの夜々を思い出す。誰にも褒められず、感謝もされず、それが当たり前だとされてきた日々。
もう、誰にもそんな思いはさせたくない。
「フィー、少し手伝ってくれるかしら」
厨房に入ると、夕食の片付けをしていた侍女長のフィーが「はい、奥様!」と元気よく振り返った。私は保存庫から取り出してきた食材を調理台に広げる。乾燥させた生姜、シナモンの樹皮、それからたっぷりの小麦粉とバター。
「これは……お菓子作りですか?」
「ええ。でも、甘いお菓子じゃないわ。夜警の人たちのための、温かいお守りよ」
私の言葉に、フィーはきょとんと目を丸くした。
私が作ろうとしているのは、ジンジャービスケット。前世で、寒い冬の夜によく自分で焼いて食べたものだ。体を温める効果のある生姜と、血行を良くすると言われるシナモンを、これでもかというくらい練り込む。甘さは極力控えめにして、代わりに少しだけ岩塩を効かせることで、疲れた体に染みる味にする。
すり鉢で生姜とシナモンを丁寧に砕いていくと、厨房にスパイシーで甘い香りが立ち上り始めた。その香りに誘われたのか、何人かの料理人たちが興味深そうにこちらを覗き込んでいる。
「奥様、すごい香りですね。なんだか、体がぽかぽかしてくるみたいです」
フィーがくんくんと鼻を鳴らす。
「それが狙いよ。これを熱いミルクと一緒に差し入れするの。ポケットに入れておけば、少しの間は温かさが残るし、かじればスパイスの刺激で眠気も覚めるはず」
私は生地をまとめ、薄く伸ばしていく。大きさは、手のひらに収まるくらいの、少し大きめな円形。分厚く作れば、腹持ちも良くなるだろう。
オーブンに入れてしばらくすると、厨房はさらに濃厚な香ばしさに満たされた。焼き上がったビスケットは、美しい狐色をしていて、見ているだけで心が温かくなるようだった。
その日の夜、最初の差し入れは、私とフィーで直接、城壁の上の持ち場まで運んだ。
*
夜の城壁は、私が想像していた以上に冷え込んでいた。風が容赦なく頬を打ち、厚いマントを着ていても体の芯まで凍えそうだ。
「ご苦労様です。温かいものを、どうぞ」
交代のために集まっていた兵士たちは、突然現れた私を見て、驚きに目を見開いた。無理もない。公爵夫人が、こんな夜更けに、自ら差し入れを持って現れるなど、前代未聞だろう。
彼らは恐縮しながらも、湯気の立つホットミルクのカップと、まだ温かいビスケットを受け取った。
「……うまい」
最初に口を開いたのは、一番年嵩に見える兵士だった。彼はビスケットを一口かじり、驚いたように目を見開いている。
「なんだこれ……体が、中から燃えるみてえだ」
「ミルクも、ただのミルクじゃねえ。ほんのり甘くて、腹に染みる……」
他の兵士たちも、次々にビスケットを口に運び、その効果に驚きの声を上げた。冷え切っていた彼らの頬に、みるみるうちに血の気が戻っていく。ピリッとしたスパイスの刺激が、疲労の滲んでいた彼らの瞳に活力を与えているのが見て取れた。
「ありがとうございます、奥方様!」
「これで、朝まで戦えます!」
不器用だが、心の底からの感謝の言葉。私は「お口に合ったのなら良かったわ」と微笑んで返すのが精一杯だった。
その日から、夜警への差し入れは私の日課になった。
噂はあっという間に広まり、兵士たちは交代の時間になると、どこかそわそわと差し入れを待つようになった。そして、いつしかそのビスケットは、彼らの間でこう呼ばれるようになっていた。
「奥様のお守りだ」と。
それを最初に聞いたのは、侍女たちの噂話からだった。
「夜警の皆さんが言ってるんですって。『あのビスケットをポケットに入れておくと、不思議と寒さを感じないし、魔除けにもなる気がする』って」
まさか、そんな大げさな。私は苦笑したが、同時に胸の奥が温かくなるのを感じていた。私の作ったものが、ただの食料ではなく、彼らの心を支える何かになっている。その事実が、素直に嬉しかった。
*
そんなある夜のことだった。
私はいつものように、一人で厨房に立ち、ビスケットの生地をこねていた。フィーは他の仕事で手が離せず、今夜は少し作業が遅れていた。大量の生地をこねるのは、なかなかの重労働だ。私が額の汗を拭った、その時だった。
厨房の入り口に、数人の人影が立っているのに気づいた。見れば、見覚えのある顔。先日、城壁の上でビスケットを美味いと言ってくれた、若い兵士たちだった。彼らは非番のはずなのに、なぜこんな場所に。
「……何か、御用かしら?」
私が声をかけると、彼らはお互いに顔を見合わせ、もじもじと躊躇している。やがて、一番体格のいい青年が、意を決したように一歩前に出た。
「あの、奥方様!いつも、ありがとうございます!」
彼はそう言うと、仲間たちと共に、ぎこちない動きで深々と頭を下げた。
「俺たち、いつも頂いてばかりで……。何か、俺たちにも、手伝えることはないでしょうか」
その言葉は、私にとって全く予想外のものだった。
私は一瞬、言葉を失った。彼らは、差し入れを受ける側だ。手伝う義務など、どこにもない。それなのに、彼らは自らの意思で、ここに立っている。
私は、山になった生地と、彼らの真剣な顔を見比べた。そして、自然と笑みがこぼれた。
「……そう?それなら、そこの生地を丸めて、平たく伸ばすのを手伝ってくれるかしら。不格好でも構わないから」
「はい!お任せください!」
兵士たちは、ぱあっと顔を輝かせ、いそいそと手を洗い始めた。
そこからの厨房は、まるで戦場のようであり、同時にお祭りのようでもあった。
剣や槍を扱うことには慣れているであろう、ごつごつとした大きな手。その手で、彼らは懸命に、そして驚くほど不器用に生地と格闘していた。
生地を丸めるつもりが歪な塊になったり、伸ばそうとして穴を開けてしまったり。あちこちから「うわっ」「しまった!」という声が上がる。私はその度に笑いをこらえながら、一つ一つ丁寧にやり方を教えた。
彼らは真剣だった。まるで、初めて剣の訓練を受ける新兵のように、私の言葉の一言一句を聞き漏らすまいと集中している。その瞳には、この家の主を守る時と同じ、実直な光が宿っていた。
やがて、たくさんの不格好な、しかし愛情のこもったビスケットが焼き上がった。
「ありがとうございました。とても助かったわ」
私が礼を言うと、彼らは照れくさそうに頭を掻いた。
「いえ!こちらこそ、ありがとうございました!自分たちで作ったお守りは、なんだか、いつもより効き目がありそうです!」
彼らは誇らしげに笑い、敬礼をして厨房から去っていった。
一人になった厨房で、私は彼らが作ったビスケットを一つ、手に取ってみた。形はいびつで、焼き色にもむらがある。けれど、それは私が今まで作ったどのビスケットよりも、温かく、そして重く感じられた。
実家では、こんなことは決してなかった。
私がどれだけ尽くしても、それが当たり前だと思われていた。感謝の言葉も、協力の申し出も、何一つなかった。私の行動は、常に一方通行の「我慢」でしかなかったのだ。
でも、ここは違う。
私の小さな行動が、確かに人の心を動かし、温かい気持ちのやり取りを生んでいる。それは、契約書には書かれていない、見えない忠誠。そして、私がこの家の一員として、確かに受け入れられている証。
ポケットの中の不格好なビスケットを、私はそっと握りしめた。