第185話 天秤と剣の下で
アレスティード公爵家の法務チームが、全ての法的手続きを水面下で、しかし猛烈な速さで進めていることだけを、私は知っていた。公会の執務室で過ごす私の日常は、何も変わらない。けれど、分厚い雪雲の向こう、遠い王都で、一つの長い物語が、その最後の頁を迎えようとしている気配だけは、確かに感じていた。
その知らせは、法務部長のロイド氏によって、直接もたらされた。彼はその日の昼過ぎに屋敷に到着し、アレス様と私が待つ書斎へと、静かに入室した。
「ご報告いたします。本日午前、王都の公証裁判所にて、元ラトクリフ伯爵に対する最終審理が執り行われました」
彼の声は、いつもと変わらず、一切の感情を排した事務的なものだった。彼は、私とアレス様の前に、一通の公式な報告書を差し出した。
「これは、その判決の全文です」
私は、その羊皮紙にすぐには手を伸ばさなかった。ただ、ロイド氏の顔をまっすぐに見つめた。彼の口から、直接その結末を聞きたかった。彼は、私の意図を正確に汲み取ると、静かに続けた。
「審理は、もはや裁判と呼べるようなものではありませんでした。それは、ただ、法廷に提出された動かぬ証拠に基づき、罪状と判決を読み上げるためだけの、儀式に近いものでした」
*
ロイド氏の淡々とした報告を聞きながら、私の脳裏に、その光景が、まるで見てきたかのように鮮やかに浮かび上がった。
王都の公証裁判所。天井は高く、壁には天秤と剣を意匠とした王家の紋章が、冷たく掲げられている。傍聴席に人はまばらで、その場の空気は、厳粛というよりは、むしろ無感動なほどに静まり返っていた。
その中央にある被告席に、一人の男が引き据えられていた。衛兵に両脇を固められたその男は、かつて私が知る、尊大で、常に体面を気にする父の姿とは、似ても似つかなかった。背は丸まり、囚人服は彼の痩せた体には大きすぎる。そして、その顔には、何の表情もなかった。ただ、虚ろな瞳で、正面に座る裁判官を、焦点の合わない目で見つめているだけだった。彼はもはや、ラトクリフ伯爵ではない。ただの、怯え、疲れ果てた、一人のみすぼらしい老人だった。
裁判官が、高い壇上から、抑揚のない声で、罪状を読み上げていく。長年にわたる悪質な資産隠蔽、そして、法の裁きから逃れようとした、国外逃亡未遂。その言葉が、静かな法廷に響き渡る。だが、被告席の男は、何の反応も示さない。反論も、言い訳も、そして命乞いさえも、彼の口から発せられることはなかった。
やがて、裁判官は最後の羊皮紙を手に取った。判決の時だった。
「被告、元ラトクリフ伯爵に対し、以下の判決を言い渡す」
裁判官の声だけが、冷たく、明瞭に響いた。
「ラトクリフ伯爵家に代々与えられてきた、全ての爵位を、本日付で完全に剥奪する」
「被告が所有する、隠し資産を含む全ての財産を、完全に没収する」
「没収した全財産は、法に定められた順位に従い、全ての債権者へ、公平に分配するものとする」
その、簡潔で、一切の情状酌量もない判決が、言い渡された瞬間。
被告席に座っていた父の体が、ゆっくりと、前に傾いた。まるで、見えない糸が、ぷつりと切れた操り人形のように。彼は、何の音も立てずに、前のめりに、床へと崩れ落ちた。衛兵たちが慌ててその体を抱え起こしたが、彼の意識は、もはやそこにはなかった。
ただ、一つの家が、法の下で、静かに、そして完全に、その存在を終えた。
*
私は、ロイド氏の報告を聞き終えても、何も言わなかった。私の心は、驚くほど静かだった。喜びも、悲しみも、そして憐れみさえも、そこにはなかった。ただ、遠い昔に読み終えた物語の、最後の結末を、確認しただけのような、そんな不思議な感覚だった。
「ご苦労様でした、ロイド部長。完璧な仕事ぶりに、感謝します」
私の代わりに口を開いたのは、アレス様だった。彼の声もまた、静かだった。
「はっ。身に余るお言葉です」
ロイド氏は深く一礼し、書斎を退出していった。




