第184話 北の国境
書斎の静寂の中で、アレス様は指先でテーブルを一度だけ叩いた。それは、思考の終わりと、実行の始まりを告げる合図だった。彼は、静かにブランドンへと視線を向けた。
「王都の北東街道。そこから繋がる国境検問所は三つ。全ての司令官に、私の名で親書を送れ」
彼の声は低く、部屋の空気を支配する力を持っていた。
「御意。して、親書の内容は」
ブランドンは、主の意図を正確に汲み取るべく、静かに問い返す。
「『五十代から六十代の男、中肉中背、貴族風の顔立ちだが、商人に扮している可能性あり。多額の金品を所持。以上の特徴に合致する人物の出国を、理由の如何を問わず禁ずる。発見次第、身柄を拘束し、王都中央へ丁重に送還せよ』…以上だ」
アレス様は淀みなく続けた。
「ラトクリフの名は出すな。これは、法を逃れようとする不審者を拿捕する、公務として処理させろ」
「かしこまりました。直ちに手配いたします」
ブランドンは深々と一礼すると、音もなく書斎を退出していった。数分後、窓の外で馬の蹄の音が遠ざかっていくのが聞こえた。アレスティード公爵家の紋章を掲げた密使が、吹雪の夜闇の中へと駆け出していったのだ。王国で最も早く、そして最も確実な伝令。それが北の国境に張り巡らされた、見えない網の最初の糸となった。
私はその全てを、ただ黙って見ていた。私の心に動揺はなかった。これは私怨による追跡劇ではない。公爵家の権威をかけた、法の執行だ。そう自分に言い聞かせた。
*
それから五日が過ぎた。その間、王都からの報告は一切途絶えた。まるで嵐の前の静けさだった。私は日々の公務をこなしながら、静かにその時を待っていた。
そして六日目の午後、王都から法務部長のロイド氏が再び屋敷を訪れた。彼の顔には長旅の疲れも見えず、ただ任務を完了した者だけが持つ、静かな達成感が浮かんでいた。
書斎でアレス様と共に彼の報告を受ける。彼は恭しく一礼すると、一通の封書をテーブルの上に置いた。
「奥様、ご報告いたします。ラトクリフ伯爵の身柄は、昨日の早朝、北東第3国境検問所にて確保いたしました。これは、現場の警備隊長から提出された、拘束時の詳細な報告書です」
私は、その封書を静かに受け取った。蝋を割り、中の羊皮紙を取り出す。そこに記されていたのは、私の記憶にある父の姿とは似ても似つかない、一人の逃亡者の哀れな末路だった。
報告書に記された無機質な活字が、あの日の光景を淡々と描写していく。
『対象、ラトクリフ伯爵は、逃亡開始から五日目の早朝、北東第3国境検問所に姿を現した。服装は安物の商人が着るそれで、数日間の無理な移動により、心身ともに著しく疲弊した様子が窺えた』
あと一歩で自由になれる。その焦りと、微かな希望だけが、彼の足を前に進ませていたのだろう。報告書によれば、その日の国境は激しい吹雪に見舞われていたという。検問所の建物から漏れる明かりが、彼にはまるで天国への入り口のように見えたのかもしれない。
『対象は検問所の兵士に対し、震える手で偽造された身分証を提示。しかし、当検問所にはすでに公爵閣下からの通達が下っており、兵士は身分証に一切触れることなく、待機していた警備隊へ合図を送った』
兵士のその無感動な仕草が、父の最後の希望を打ち砕いたのだろう。報告書は続く。
『警備隊員数名が、音もなく対象の前後を包囲。その瞬間、対象は全てを悟ったように顔面を蒼白にさせ、持っていた旅行鞄を取り落とした』
鞄が雪の上に落ち、中からいくつかの金塊が転がり出たという。それらは、吹雪の中で鈍い光を放ち、彼の犯した罪の重さを象徴しているようだった。
『対象は、抵抗する気力もなく、その場に崩れ落ちるように膝をついた。警備隊長が拘束を告げると、ただ虚ろな目で頷くだけであった』
羊皮紙の最後の一文を読み終え、私は静かにそれをテーブルの上に置いた。私の心は、驚くほど凪いでいた。そこに憐れみや憎しみはなかった。あるのは、ただ、当然の結末だという、冷たい納得だけだった。
*
アレス様は、その報告書を私から受け取ると、一度だけざっと目を通した。そして、何でもないもののように立ち上がると、それを暖炉の燃え盛る炎の中へと投げ入れた。
分厚い羊皮紙は一瞬で炎に包まれ、父の逃亡劇の終焉を記した文字は、黒い灰となって消えていく。彼にとって、それはすでに終わったことであり、興味の対象ではなかった。
彼は私の方へ向き直ると、ただ、淡々と事実だけを告げた。
「ラトクリフ伯爵の身柄は、確保された。これで、全て、法の裁きの下に、戻る」
その言葉に、私は静かに頷いた。そうだ。全てが、あるべき場所へと戻るだけなのだ。情でも、憎しみでもなく、ただ、公平なルールの下へ。
「ロイド部長」とアレス様は続けた。「王都へ戻り、公証裁での最終手続きを進めろ。判決が下り次第、速やかに資産の再分配を開始するように」
「かしこまりました」
ロイド部長は深く一礼し、書斎を退出していった。




