第183話 夜陰の逃亡者
アレスティード公爵家の法務チームが提出した申請書は、王都の裁判所によって即日受理された。そして、その後の凍えるような朝、ラトクリフ伯爵家に最後通牒が届けられた。それは、裁判所の執行官が突きつけた、隠し資産を含む全財産の差し押さえを命じる、冷徹な法的文書だった。
その紙切れ一枚が、父の心に残っていた最後の細い糸を、無慈悲に断ち切った。
全てを失う。爵位も、屋敷も、見栄も、そして隠し通してきた最後の金さえも。その絶対的な恐怖は、彼の内でかろうじて形を保っていた理性を完全に粉砕し、生存本能という名の獣を解き放った。
国外逃亡。その四文字だけが、彼の思考の全てを支配した。
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その日の夜、屋敷は墓場のような静寂に包まれていた。継母は、最終通告の意味を理解した瞬間からヒステリーを起こし、今は自室で薬を飲んで人形のように眠っている。父は、もはや彼女の存在など眼中になかった。彼女は、これから始まる逃亡劇において、ただの重荷でしかない。
父は、物音を立てないように書斎に入ると、震える手で床下の隠し戸棚を開けた。中から取り出したのは、革の旅行鞄と、ずしりと重い小さな金属の箱。箱の中には、彼が長年かけて蓄えた金塊と、最後の宝飾品が鈍い光を放っていた。これが、彼の再起のための、最後の元手だった。
彼は、ありったけの金品を鞄に詰め込むと、埃をかぶった古い外套を羽織った。使用人はとうの昔に全て解雇され、広すぎる屋敷には彼と、眠る継母の二人しかいない。誰にも見咎められる心配はなかった。
彼は一度だけ、継母の眠る部屋の扉に目を向けたが、その視線には何の感情も浮かんでいなかった。そして、振り返ることなく、屋敷の裏口から夜の闇へと滑り込むように姿を消した。
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王都の街路は、冷たい夜霧に包まれていた。父は、人目を避けるように裏通りを選んで足早に進む。目指すは、王都の北東門。そこを抜け、乗り合いの夜行馬車に乗り込みさえすれば、あとは国境まで辿り着けるはずだ。
目的地は、北東の国境を越えた先にある小さな自由都市。そこは王国とは何の条約も結んでいない、いわば法の及ばない無法地帯。そこまで逃げ延びさえすれば、アレスティード公爵の権力も、王国の厄介な法律も、もう二度と彼を追ってくることはない。
鞄の重みが、彼の疲れた腕に食い込む。しかし、その重さだけが、彼に微かな希望を与えていた。これだけの金があれば、新しい人生を始められる。そうだ、まだ終わりではない。
北東門の検問は、深夜ということもあり、予想以上に手薄だった。彼は、怪しまれないように俯きながら、他の数人の旅人に紛れて、あっさりと城壁の外へ出ることができた。
闇に沈む街道の向こうから、夜行馬車のランプの光が見える。彼は、安堵のため息をついた。勝った、と彼は思った。あの冷徹な公爵と、自分を裏切った娘から、完全に逃げ切ったのだ、と。
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北の地、アレスティード公爵家の書斎では、暖炉の炎が静かに揺らめいていた。公会の定例報告を終えた私はすでに自室へ戻り、書斎にはアレス様と、執事長のブランドンだけが残っていた。
静寂を破ったのは、書斎の隅に置かれた通信魔導器のかすかな作動音だった。ブランドンがそれに応じ、短い言葉を交わした後、アレス様の前へと進み出た。
「閣下、王都の監視チームより定時連絡です」
ブランドンの声は、いつもと変わらず平坦だった。
「対象、ラトクリフ伯爵は、本日深夜、王都の北東門より脱出。現在、北東街道を移動中の夜行馬車に乗車中との確報が入りました。目的地は、国境沿いの町と推定されます」
ブランドンは、手にしたメモに目を落とし、淡々と事実を読み上げる。
「所持品は、革製の旅行鞄一つ。中身は、推定で金塊二十個、及び宝飾品数点。彼が隠していた資産の、ほぼ全てかと思われます」
その報告を聞きながら、アレス様は指先でテーブルを軽く一度だけ叩いた。まるで、予測通りの場所に駒が置かれたことを確認するかのように。
彼は、暖炉の炎から視線を外すと、静かにブランドンを見た。
「鼠が、罠にかかる前に、巣穴から逃げ出したか」
彼の声は、静かだった。だが、その声に含まれた絶対的な確信が、部屋の空気を支配した。
「だが、この国から、出ることはできん」




