第182話 インクの染みと帳簿の嘘
私の決断が下されてから、屋敷の空気は表向き何も変わらなかった。私は日々の大半を公会本部の執務室で過ごし、奨学金制度の細則を詰めたり、加盟店から上がってくる報告書に目を通したりしていた。目の前の仕事に集中しようとすればするほど、心の片隅で王都の動きが微かに気配を立てる。まるで静かな部屋の隣室で、巨大な機械が音もなく稼働しているようだった。
アレス様は、あの日の書斎での一件以来、実家のことについては一言も口にしなかった。けれど、私には分かっていた。彼の持つ広大で緻密な情報網が、今この瞬間も静かに、しかし着実に、王都という名の盤上で駒を進めていることを。
*
最初の報告がもたらされたのは、それから一週間が過ぎた日のことだった。法務部長のロイド氏が、王都から直接屋敷を訪れた。
「奥様、調査の進捗をご報告いたします」
書斎でアレス様と共に彼の報告を受ける。ロイド氏は、疲れた様子も見せずに、分厚い書類の束をテーブルの上に置いた。
「まず、王都及びその近郊の全ての登記所、そして王国銀行を含む主要な金融機関二十七行の過去二十年分の記録を、我々の調査チームが精査いたしました」
「……全ての記録を?」
思わず聞き返した私に、ロイド氏は静かに頷いた。
「はい。ラトクリフ伯爵個人の名義、及びラトクリフ家の名義では、公的に届け出されている以外の資産は、当然ながら一切発見されませんでした。彼はその点において、極めて用意周到でした」
その言葉は、調査が行き詰まったという意味ではなかった。むしろ、これから始まる本当の戦いの序曲のように響いた。
「しかし」とロイド氏は続けた。「我々は調査の対象を、特定の個人名から『筆跡』へと切り替えました。ラトクリフ伯爵が公的な書類に残した署名の特徴を抽出し、それと一致する、あるいは酷似する筆跡を持つ署名を、膨大な記録の中から洗い出す作業です」
「そんなことが可能なのですか」
「ええ。アレスティード公爵家が長年支援してきた、王都アカデミーの文献学者チームの協力を得ました。彼らは、古文書の真贋を判定する専門家です。その技術を応用しました」
私の知らないところで、公爵家の持つ力が、学術の分野にまで及んでいることを知った。
「そして、ついに発見いたしました。ラトクリフ伯爵とは全く無関係と思われる、遠縁の親戚筋の名義で登記された土地の権利証書に、酷似した署名が残されていたのです。大海の中から、特定のインクの染みを探し当てるような作業でしたが」
ロイド氏は、一枚の羊皮紙の写しを私の前に滑らせた。そこに記された署名は、紛れもなく、私が見慣れた父の筆跡だった。
*
その一つのインクの染みは、突破口となった。
それから数日、王都の調査チームから送られてくる報告書は、日に日にその厚みを増していった。一つ目の偽名登記が見つかると、その土地の取引に関連した金の流れを追うことで、次々と隠された口座が芋蔓式に明らかになっていく。
「本日、新たに二つの偽名口座を発見しました」
通信魔導器を通じて聞こえるロイド氏の声は、相変わらず冷静だった。
「特筆すべきは、そのうちの一つが、十年前に死亡したとされる元使用人の名義で開設されていたことです。死亡届が役所に受理された、三日後の日付で」
「……死者が、銀行口座を?」
「明らかに偽装です。口座開設時に提出された身分証の写しも入手しましたが、専門家によれば、極めて精巧な偽造品であるとの鑑定結果が出ております。これほどの偽造品を個人で用意するのは不可能。ラトクリフ伯爵が、裏社会の専門家と繋がりを持っていたことの証左とも言えましょう」
報告を聞きながら、私は静かに目を閉じた。父が築き上げてきた嘘の城が、アレスティード公爵家の専門家たちの手によって、一枚また一枚と、冷徹な論理で剥がされていく。そこに私の感情が入り込む余地はなかった。ただ、目の前で事実が淡々と積み上げられていくだけだった。
*
物証は、もはや十分すぎるほど揃っていた。不動産の権利証書、偽名の銀行口座、金の流れを示す取引記録。だが、それらが法廷で絶対的な力を持つためには、最後のピースが必要だった。それらの資産隠蔽が、ラトクリフ伯爵本人の明確な意志によって行われたという、決定的な証拠だ。
そして、その最後のピースは、意外なほど近くにあった。
アレス様の指示により、公爵領で暮らす元ラトクリフ伯爵家の使用人たちから、正式な聞き取り調査が行われることになった。王都から派遣された厳格な法務官が、公会本部の小さな一室で、彼ら一人一人と静かに向き合った。
私は、その聞き取りには同席しなかった。私の存在が、彼らの証言に余計な感情を交じらせてしまうことを避けたかったからだ。
その日の夕方、聞き取りを終えた法務官が、私の執務室を訪れた。
「奥様。決定的な証言が得られました」
彼の報告によれば、証言したのは、かつて幼い私を何かと気にかけてくれていた、老侍女のマーサだった。
「マーサは、はっきりと記憶しておりました。ラトクリフ伯爵が、五年ほど前の嵐の夜、書斎の床下にある隠し戸棚に、何枚もの羊皮紙を隠しているのを、扉の隙間から確かに目撃した、と」
法務官は、マーサが描いたという、書斎の見取り図を私に見せた。そこには、大きな執務机の下に、隠し戸棚の場所が正確に記されている。
「さらに、別の元庭師は、伯爵が屋敷の裏手にある樫の木の根元に、小さな金属の箱を埋めているのを見たとも証言しています。おそらくは、偽名口座の印鑑や鍵でしょう」
物証と状況証拠が、元使用人たちの記憶という名の糸によって、完全に結びついた瞬間だった。
*
全ての調査結果をまとめた最終報告書は、私の想像を絶する厚さになっていた。ロイド部長が、その分厚い書類の束を私の前に置いた時、私はそれがもはや単なる紙の束ではなく、一つの家を法的に解体するための設計図なのだと理解した。
「奥様、これが我々が収集した全ての証拠と証言です。これらを元に、裁判所へ提出する追加差し押さえの申請書を作成いたしました」
彼は、別に用意された、より薄く、しかし威厳のある装丁の書類の束を差し出した。表紙には、格調高い文字で『債権回収に関する追加資産差し押さえ申請書』と記されている。
「これで、ラトクリフ伯爵に、言い逃れの術は一切ございません」
ロイド氏の言葉は、静かだが絶対的な自信に満ちていた。
私は、その申請書の表紙を、指先でそっと撫でた。ひやりとした羊皮紙の感触。そこには、父への憎しみも、憐れみもなかった。ただ、歪められていたものが、本来あるべき場所へと戻るための、冷徹な手続きだけが存在していた。
「直ちに、王都の裁判所へ提出いたします」
ロイド氏がそう告げた時、私は法という名の巨大で精密な網が、音もなく、そして完全に閉じられたのを感じた。




