第181話 最後の請求書
公会の執務室の窓から差し込む陽光は、冬のそれとは思えないほど穏やかだった。私の手元には、新設した奨学金制度への申請書類の束が置かれている。一枚一枚に記された若者たちの名前と、料理人になりたいという拙いが熱意のこもった志望動機に目を通す時間は、今の私にとって何より心安らぐひとときだった。
レオが推薦してきた港町の食堂の娘、パン屋の親方に弟子入りしたものの家が貧しく専門書も買えないという少年。彼らの未来が、この一枚の羊皮紙から始まろうとしている。噂戦の後に得た賠償金が、こうして確かな希望の種に変わっていく。その確かな手応えが、私の胸を静かに満たしていた。
過去は清算された。私はそう信じていた。父も、継母も、妹も、それぞれの場所で新しい時間を歩み始めている。私を縛り付けていた古い家の記憶は、北の地の厳しい冬がもたらす雪の下に、静かに埋もれてしまったはずだった。
*
その平穏が、予期せぬ形で破られることになるとは、まだ知る由もなかった。
執務室の扉が控えめにノックされ、入ってきたのは侍女長のフィーではなく、公爵家の執事長であるブランドンその人だった。彼のいつもと変わらぬ無表情の裏に、微かな緊張が滲んでいるのを私は見逃さなかった。
「奥様、お仕事中失礼いたします。アレスティード公爵家の法務部長が、王都より緊急の報告に参っております。閣下が、奥様にもご同席いただきたい、と」
「法務部長が? わたくしに?」
公会の運営に関することではない。それはすぐに分かった。そして、緊急の報告となれば、考えられる理由は一つしかない。私はペンを置くと、静かに立ち上がった。
「わかりました。すぐに向かいます」
書斎の重厚な扉を開けると、そこにはすでにアレス様と、見慣れない初老の男性が待っていた。男性は背筋を伸ばし、その理知的な顔には長年、法という名の精密な機械を扱ってきた者だけが持つ、独特の厳格さが刻まれている。彼が法務部長だろう。
私がソファに腰を下ろすのを待って、彼は深く一礼した。
「公爵夫人には、初めてお目にかかります。法務部長のロイドと申します。本日は、決して喜ばしいとは言えないご報告のために、お時間を頂戴いたしましたこと、まずはお詫び申し上げます」
その硬質な声には、一切の感情が乗っていなかった。
「単刀直入に申し上げます。ラトクリフ伯爵家の資産差し押さえについて、問題が浮上しております」
私の背筋が、かすかに強張る。アレス様は腕を組み、暖炉の炎を眺めたまま、沈黙を守っていた。
「差し押さえ自体は、法に則り完了いたしました。ですが、競売にかけた屋敷や家財の売却益を合計しても、全ての債務を到底賄いきれないことが判明したのです」
ロイド部長は、手にした書類に目を落とした。
「特に、長年にわたり給与の支払いを滞納されていた元使用人たちへの支払いに充当できる金額は、本来支払われるべき額の二割にも満たないのが現状です」
その言葉に、私の胸の奥が冷たくなる。かつて、幼い私を陰ながら気遣ってくれた、あの人たちの顔が脳裏をよぎった。彼らが、正当な対価さえ受け取れずにいる。
「ですが」とロイド部長は顔を上げた。その目に、鋭い光が宿る。「我々の調査で、ラトクリフ伯爵が長年にわたり、第三者名義で資産を隠蔽してきたことを示す、確かな証拠を発見いたしました」
書斎の空気が、一瞬で凍りついた。
*
「隠し資産、ですか」
私の問いに、ロイド部長は静かに頷いた。
「はい。遠縁の親戚や、とうの昔に亡くなったはずの使用人の名義で登記された、王都近郊の複数の不動産。そして、偽名で開設された、いくつかの銀行口座の存在を確認しております」
彼は、証拠として用意してきた書類の写しを、テーブルの上に滑らせた。そこには、見覚えのある父の筆跡で署名された、おびただしい数の権利証書や預金証書のリストが並んでいた。
「これらの資産を全て合わせれば、債務の完済はもちろん、元使用人たちへの遅延損害金を含めても、なお余りある金額となります」
ロイド部長は、そこで一度言葉を切った。そして、その視線を私にまっすぐに向けた。その目は、法律家としてではなく、一人の人間として、私に問いかけているようだった。
「ですが奥様、これ以上の追及は、ラトクリフ伯爵を法的に、そして社会的に、完全に破滅させることになります。すでに爵位も名誉も失った老人を、再起不能にまで追い詰めることになる。奥様のお気持ち次第では、この辺りで手を打つことも……」
彼の言葉は、私への最後の温情だった。血の繋がった父親に対する、娘としての情けをかける機会を、彼は与えてくれたのだ。
私の心は、しかし、静まり返っていた。そこに感傷が入り込む余地はなかった。
「いいえ」
私の声は、自分でも驚くほど、静かで、冷たく響いた。
「情状酌量の余地はありません。法に則り、隠されたものを含め、全ての債権を回収してください」
ロイド部長が、わずかに目を見開く。その驚きを意に介さず、私は続けた。
「特に、元使用人の方々への未払い給与は、法で定められた最高の利率で遅延損害金を計算し、最優先でお支払いください。それが、伯爵が最後に果たすべき、最低限の義務です」
これは復讐ではない。感傷でもない。歪められたルールを、本来あるべき正しい形に戻すための、最後の義務だ。私が、あの家を出た人間として、そして今、このアレスティード家の名を負う者として、果たさねばならない責任なのだ。
全ての視線が、部屋の沈黙の主、アレス様に注がれた。彼は、暖炉の炎からゆっくりと視線を外し、ロイド部長へと向けた。
彼は、何も言わなかった。
ただ、その灰色の瞳で、私の決断を肯定するように、静かに、しかし、力強く頷きを一つ返した。
その無言の肯定こそが、この屋敷で最も容赦のない、絶対的な命令だった。
「……かしこまりました」
ロイド部長は、全てを悟ったように深く一礼すると、音もなく書斎を退出していった。




