第180話 静かな夜の温茶
すべての騒音が過ぎ去り、アレスティード公爵家の屋敷には冬の深い静寂が戻っていた。王都から届いたSランクの格付けを記した羊皮紙は、今は書斎の机の隅に静かに置かれている。その無機質な文字の列を眺めるたび、私は長く続いた戦いが本当に終わったのだと実感した。
街からは悪意のあるビラも囁き声も完全に姿を消し、私が設立した基金はすでに静かに動き始めている。会計帳簿に並ぶ数字は正常な活動を示し、奨学金制度の第一期生採用も無事に終わった。やるべきことはまだ山ほどある。けれど、かつてのような焦燥感はもうなかった。
*
その夜、私は厨房に立ち、二人分のお茶を淹れていた。眠りを誘うカモミールに、少しだけ体を温めるための生姜の薄切りを浮かべる。湯気が立ち上り、穏やかな香りが私の心を解きほぐしていく。
銀の盆に二つのカップを乗せて書斎へ向かうと、アレス様は暖炉の前にある肘掛け椅子に深く腰掛け、揺れる炎をじっと見つめていた。執務を終えた後の、彼だけの静かな時間。その時間を邪魔しないように、私は音を立てずに彼の隣に近づいた。
私が差し出したカップに、彼は気づいて顔を上げた。その灰色の瞳には、暖炉の炎が暖かく映り込んでいる。彼は無言でカップを受け取ると、その温かさを確かめるように両手で包み込んだ。
私も彼の隣にある椅子に腰を下ろし、自分のカップに口をつけた。カモミールの優しい香りが、鼻腔をくすぐる。
「やっと、静かになりましたわね」
安堵のため息と共に、言葉が自然にこぼれた。私たちの周りには、暖炉の薪がぱちぱちとはぜる音と、窓の外でしんしんと降り積もる雪の気配だけがある。
アレス様は、カップから目を上げ、静かに私を見た。そして、短い言葉を返した。
「お前が、静かにさせたのだ」
その言葉には、何の飾りもなかった。ただ事実を述べただけの、彼らしい無骨な響き。しかし、その短い一文に込められた彼の最大限の労いと、パートナーへの絶対的な信頼を、私はもう痛いほど理解していた。
私は何も答えなかった。ただ、カップの温かさを指先で感じながら、彼の言葉を心の中でゆっくりと噛みしめる。
私たちは、それきり言葉を交わさなかった。
長く、厳しい戦いだった。言葉の毒に心を乱され、見えない敵の策略に何度も行く手を阻まれた。けれど、その全てを、私たちは二人で乗り越えてきた。
この静寂は、私たちが共に戦って手に入れたもの。この暖炉の炎の温かさも、カップから伝わる穏やかな熱も、すべてが私たちの勝利の証だった。
ふと、アレス様が私を見ているのに気づいた。私も顔を上げ、彼の視線を受け止める。揺れる炎の光の中で、彼の灰色の瞳が、今まで見たことがないほど穏やかな色をたたえているように見えた。
そこに映っているのは、賞賛でも、同情でもない。ただ、同じ時間を共有し、同じものを見て、同じ温もりを感じている者だけが交わすことのできる、静かで揺るぎない信頼の色だった。
私は、彼に向けて、静かに微笑み返した。
それで十分だった。
これ以上の言葉は、この静かな夜にはもう不要だった。




