第17話 執事長のハーブティー
家令の一件が片付いた翌日、私は執事長のブランドン様から呼び出しを受けた。
侍女からその報せを受けた時、私の心臓は小さく跳ねた。昨日の独断専行とも言える厨房での采配について、改めて何らかの言及があるのかもしれない。家令を助ける形にはなったが、結果的に私が厨房の主導権を完全に握ったことに対し、規律を重んじる彼が釘を刺しに来る可能性は十分にあった。
私は一つ深呼吸をしてから、彼の執務室へと向かった。この屋敷に来てから、何度も通った廊下。けれど今日の道のりは、まるで初めての査定に臨む新入社員のように、少しだけ足が重かった。
執務室の扉をノックすると、「どうぞ」という落ち着いた声が返ってくる。中へ入ると、ブランドン様は山積みの書類が置かれた大きな執務机の向こうで、静かに私を見つめていた。その表情からは、賛意も否意も読み取れない。
「お呼びでしょうか、ブランドン様」
「ええ、奥方。お時間をいただき感謝いたします。どうぞ、そちらへ」
彼が手で示したのは、来客用のソファではなく、彼の机の向かいに置かれた椅子だった。それは、対等な立場で話をする相手を迎え入れるための席だ。私はわずかに戸惑いながらも、言われた通りに着席した。
彼は昨日の魚の一件には一切触れず、机の上の書類の束をいくつか手に取り、私の前に静かに置いた。
「これは、来季の布製品の購入リストと、修繕が必要な家具の報告書です。そしてこちらが、使用人たちの休暇申請の草案。……奥方なら、どう思われますか」
その問いかけは、あまりにも自然だった。まるで、私がずっと以前から、この屋敷の運営に関わってきたパートナーであるかのように。
私は驚きを悟られないよう、ゆっくりと書類に目を通した。布製品のリストは、ただ業者からの言い値で発注されているように見える。家具の修繕も、場当たり的な対応に終始している。前世で叩き込まれたコスト意識と業務改善の視点から見れば、改善の余地は山ほどあった。
「……このリネンの発注先ですが、現在の業者一択ではなく、複数の業者から見積もりを取るべきかと。品質と価格を比較すれば、年間でかなりの経費を削減できる可能性があります。家具に関しても、壊れてから直すのではなく、定期的なメンテナンス計画を立てた方が、長期的に見れば安く済みますし、何より安全です」
私は、頭に浮かんだことをそのまま口にした。それは「お飾りの妻」の意見ではなく、一人の実務担当者としての見解だった。言ってしまってから、少し出過ぎた真似だったかと内心で焦ったが、ブランドン様は私の言葉を遮ることなく、静かに耳を傾けていた。
そして、私が話し終えると、彼は小さく頷き、まるで納得したように言った。
「……やはり、あなたにお聞きして正解でした。私の考えと、ほぼ同じです」
*
彼は書類を片付けると、椅子に深く座り直し、初めて私個人の働きについて口を開いた。
「奥方。あなたがこの屋敷に来られてから、多くのことが変わりました」
その声は、糾弾する響きではなく、事実を淡々と述べるような、静かなものだった。
「厨房の空気。兵士たちの士気。そして、無駄な廃棄食材の削減。どれも、私が長年、手を付けられずにいた課題でした。あなたはそれを、わずかな期間で、見事に改善された」
私はどう返すべきか分からず、ただ彼の言葉を聞いていた。
「そして何より……閣下が変わられました」
その言葉に、私は顔を上げた。彼の口から、アレスティード公爵の話が出るとは思っていなかったからだ。
「閣下は、最近よく眠れているそうだ、と以前お話ししましたね。それだけではありません。日中の執務への集中力が高まり、以前は時折見られた気分の浮き沈みも、ほとんどなくなった。先日、軍の幹部との会議があったのですが、その席での閣下は、近年稀に見るほど明晰で、力強かったそうです」
ブランドン様は、まるで我がことのように、少しだけ誇らしげにそう言った。
「すべて、奥方のおかげです。あなたの温かい食事が、閣下の心と体を、内側から支えている」
その言葉は、私の胸にじんわりと染み込んだ。
私がしてきたことは、ただ、冷たいものが嫌だったから。我慢するのが、もう嫌だったから。自分のために始めた、ささやかな抵抗だったはずだ。
けれど、その行動が、誰かを支え、この大きな屋敷の空気を変え、そしてあの氷の公爵様の中にまで、確かな変化を生んでいた。
契約や義務ではない。私が自分の意思で選び取り、行動した結果が、こうして認められている。このアレスティード公爵家という場所で、私は確かに、自分の居場所を築きつつあるのだ。
その実感が、じわりと胸に広がっていく。それは、実家では決して得られなかった、温かい感覚だった。
*
会話が一段落した時、ブランドン様は机の脇に置かれた小さなポットとカップに手を伸ばした。そして、ごく自然な手つきで、湯気の立つ液体をカップに注ぎ、一口、ゆっくりと口にした。
ふわりと、私の鼻腔をくすぐる懐かしい香り。それは、私が考案し、厨房の侍女たちに淹れ方を教えた、体を温める効果のあるハーブティーだった。
私の視線に気づいたのか、彼はカップを手に持ったまま、かすかに微笑んだ。
「フィーが淹れてくれたのです。これを飲むと、頭がすっきりする。今では、執務に欠かせないものになりました」
彼の執務机の隅には、そのハーブティーをいつでも飲めるように、小さなウォーマー付きのポットと、専用のカップが一式、きちんと整えられて置かれていた。それは、彼が私のやり方を、彼の日常に、そしてこの屋敷の規律の中に、完全に取り入れていることの、何より雄弁な証だった。
言葉で「支持する」と言われるよりも、ずっと深く、確かな信頼の形。
彼は、もはや私を「契約上の奥方」としてではなく、この家を共に運営していく「パートナー」として見ている。その事実が、ハーブティーの温かい湯気と共に、私の心を満たしていった。
「ありがとうございます、ブランドン様」
私がそう言うと、彼は不思議そうな顔をした。
「礼を言うのは、こちらの台詞ですよ」
私たちは、どちらからともなく、小さく笑い合った。
執務室を出た時、私の足取りは、来た時とは比べ物にならないほど軽やかだった。
この家には、まだたくさんの「冷たい」場所がある。凍てついた規律、非効率な慣習、そして人々の心に残る古い常識。
次は、どこを温めようか。
私は廊下の窓から、夜警の交代のために持ち場へ向かう兵士たちの姿を見つけた。北の厳しい夜風に、彼らは皆、肩をすくめている。
そうだ、次は彼らだ。あの過酷な夜を乗り切るための、温かいお守りを作ってあげよう。