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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第178話 インクの値段

 砂上の城が崩れ落ちた後には、静寂だけが残った。あれほど街を騒がせた悪意は霧散し、ヴァルト商会やオルブライト子爵の名を口にする者も、もはやいなかった。彼らの自滅を見届けたアレスティード公爵家は、しかし、まだ最後の筆を置いてはいなかった。

 書斎の重厚な扉をノックする音が響く。入室を許可された執事長のブランドンは、数枚の羊皮紙を手に、私とアレス様の前に進み出た。

「閣下、奥様。王都の法務チームより、最終的な準備が整ったとの報告が参りました」

 彼の声は、いつもと変わらず淡々としていた。だが、その言葉が意味するのは、この静かな戦争の、最後の総仕上げが始まるということだった。

 アレス様は組んでいた指を解くと、私に視線を向けた。

「お前の意見を聞きたい。選択肢は二つある。一つは、名誉毀損で彼らを正式に訴え、法廷でその罪を公に裁かせること。もう一つは、裁判を避ける代わりに、我々の提示する和解案を、全面的に受け入れさせることだ」

 彼の灰色の瞳は、私の答えを静かに待っている。それは、私を試すための問いではない。この戦いの当事者である私に、最後の決定権を委ねるという、パートナーとしての彼の誠実さの表れだった。

 私は、迷わなかった。

「和解案を。ですが、条件は一切譲歩しません」

 長引く裁判は、公会の組合員たちに、さらなる心理的な負担をかけるだけだろう。私が望むのは、見世物のような復讐劇ではない。彼らが犯した過ちの対価を、最も確実で、最も彼らにとって屈辱的な形で、支払わせること。

「彼らに、自分たちの言葉の値段を、支払わせるべきです」

 私のその答えに、アレス様は、ただ静かに頷いた。



 アレスティード公爵家の名で、王都のヴァルト商会とオルブライト子爵家に送られた最後通牒は、極めて簡潔で、冷徹なものだった。

 その内容は、公爵家の法律家チームが練り上げた、反論の余地のない和解案。回答期限は、三日。もしこれを拒否すれば、公爵家は所有する全ての証拠を法廷に提出し、刑事罰も視野に入れた、徹底的な訴訟に踏み切る。

 彼らに、もはや選択肢はなかった。組織は崩壊し、味方は去り、世論は完全に敵に回っている。裁判になれば、勝ち目がないどころか、一族の名誉は地に落ち、破産は免れないだろう。

 回答期限の最終日。王都からの一報は、やはりブランドンによってもたらされた。

「ご報告いたします。ヴァルト商会、及びオルブライト子爵家より、和解案を受諾するとの正式な回答が参りました」

 執務室の空気が、ほんの少しだけ緩む。ブランドンは、手元の書類に目を落とし、彼らが呑んだ条件を、一つ一つ読み上げていった。

「第一に、王都日報の紙面を使い、今回のデマが事実無根であったことを認める、公式な謝罪広告を掲載すること」

「第二に、温食公会が被った風評被害、及び業務妨害に対する損害賠償として、指定の金額を、十日以内に、指定口座へ支払うこと」

 その二つの条件は、彼らのプライドと、財産の両方を、完膚なきまでに叩き潰すものだった。私は、賠償金の額を尋ねた。ブランドンが告げた金額は、私の想像をはるかに超えていた。それは、公会の年間予算の、数年分に相当する額だった。

 アレス様は、その報告を聞いても、表情一つ変えなかった。彼にとって、それは当然の結果に過ぎなかったのだろう。



「その賠償金、どうするつもりだ」

 ブランドンが退出した後、書斎で二人きりになったアレス様が、ふと、私に尋ねた。

「決まっています」と私は即答した。「これは、わたくし個人のものではありません。全て、公会のものです」

 私は、この数日間、ずっと考えていた計画を、彼に打ち明けた。

「このお金を元手に、公会の基金を設立します。半分は、加盟店が新しい調理器具を導入するための、低利子の貸付金に。そして、残りの半分は、貧しい家庭の若者たちが、料理人としての技術を学ぶための、奨学金制度を創設するために使います」

 悪意から生まれた金が、未来を育むための力に変わる。それこそが、この戦いの、最も美しい終わり方だと、私は信じていた。

 私の計画を聞き終えたアレス様は、何も言わなかった。ただ、彼の厳しい表情が、ほんのわずかに、和らいだように見えた。

「……それが、最も合理的な使い方だろう」

 その、彼らしい不器用な賛辞に、私の耳の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。



 それから、一週間が過ぎた。

 王都から取り寄せた新聞の一面には、ヴァルト商会とオルブライト子爵の連名で、小さな謝罪広告が、確かに掲載されていた。その、無機質な活字の羅列は、長く続いた噂戦の、公式な死亡宣告だった。

 その日の午後、公会の執務室で会計帳簿の確認をしていた私の元へ、ブランドンが訪れた。

「奥様、ご報告いたします」

 彼は、恭しく一礼すると、一枚の通信記録を、私の机に置いた。

「先ほどの通信で、王都の銀行より、指定口座へ賠償金の全額が振り込まれたとの確認が取れました」

 その、あまりにも事務的な報告が、この戦いの、本当の終幕を告げていた。

 デマを印刷するために使われたインクの代金は、巡り巡って、今、北の地の未来を担う若者たちのための、確かな希望となって、私たちの手の中にある。

「ありがとう、ブランドン。すぐに、基金設立の手続きを始めましょう」

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