第178話 インクの値段
砂上の城が崩れ落ちた後には、静寂だけが残った。あれほど街を騒がせた悪意は霧散し、ヴァルト商会やオルブライト子爵の名を口にする者も、もはやいなかった。彼らの自滅を見届けたアレスティード公爵家は、しかし、まだ最後の筆を置いてはいなかった。
書斎の重厚な扉をノックする音が響く。入室を許可された執事長のブランドンは、数枚の羊皮紙を手に、私とアレス様の前に進み出た。
「閣下、奥様。王都の法務チームより、最終的な準備が整ったとの報告が参りました」
彼の声は、いつもと変わらず淡々としていた。だが、その言葉が意味するのは、この静かな戦争の、最後の総仕上げが始まるということだった。
アレス様は組んでいた指を解くと、私に視線を向けた。
「お前の意見を聞きたい。選択肢は二つある。一つは、名誉毀損で彼らを正式に訴え、法廷でその罪を公に裁かせること。もう一つは、裁判を避ける代わりに、我々の提示する和解案を、全面的に受け入れさせることだ」
彼の灰色の瞳は、私の答えを静かに待っている。それは、私を試すための問いではない。この戦いの当事者である私に、最後の決定権を委ねるという、パートナーとしての彼の誠実さの表れだった。
私は、迷わなかった。
「和解案を。ですが、条件は一切譲歩しません」
長引く裁判は、公会の組合員たちに、さらなる心理的な負担をかけるだけだろう。私が望むのは、見世物のような復讐劇ではない。彼らが犯した過ちの対価を、最も確実で、最も彼らにとって屈辱的な形で、支払わせること。
「彼らに、自分たちの言葉の値段を、支払わせるべきです」
私のその答えに、アレス様は、ただ静かに頷いた。
*
アレスティード公爵家の名で、王都のヴァルト商会とオルブライト子爵家に送られた最後通牒は、極めて簡潔で、冷徹なものだった。
その内容は、公爵家の法律家チームが練り上げた、反論の余地のない和解案。回答期限は、三日。もしこれを拒否すれば、公爵家は所有する全ての証拠を法廷に提出し、刑事罰も視野に入れた、徹底的な訴訟に踏み切る。
彼らに、もはや選択肢はなかった。組織は崩壊し、味方は去り、世論は完全に敵に回っている。裁判になれば、勝ち目がないどころか、一族の名誉は地に落ち、破産は免れないだろう。
回答期限の最終日。王都からの一報は、やはりブランドンによってもたらされた。
「ご報告いたします。ヴァルト商会、及びオルブライト子爵家より、和解案を受諾するとの正式な回答が参りました」
執務室の空気が、ほんの少しだけ緩む。ブランドンは、手元の書類に目を落とし、彼らが呑んだ条件を、一つ一つ読み上げていった。
「第一に、王都日報の紙面を使い、今回のデマが事実無根であったことを認める、公式な謝罪広告を掲載すること」
「第二に、温食公会が被った風評被害、及び業務妨害に対する損害賠償として、指定の金額を、十日以内に、指定口座へ支払うこと」
その二つの条件は、彼らのプライドと、財産の両方を、完膚なきまでに叩き潰すものだった。私は、賠償金の額を尋ねた。ブランドンが告げた金額は、私の想像をはるかに超えていた。それは、公会の年間予算の、数年分に相当する額だった。
アレス様は、その報告を聞いても、表情一つ変えなかった。彼にとって、それは当然の結果に過ぎなかったのだろう。
*
「その賠償金、どうするつもりだ」
ブランドンが退出した後、書斎で二人きりになったアレス様が、ふと、私に尋ねた。
「決まっています」と私は即答した。「これは、わたくし個人のものではありません。全て、公会のものです」
私は、この数日間、ずっと考えていた計画を、彼に打ち明けた。
「このお金を元手に、公会の基金を設立します。半分は、加盟店が新しい調理器具を導入するための、低利子の貸付金に。そして、残りの半分は、貧しい家庭の若者たちが、料理人としての技術を学ぶための、奨学金制度を創設するために使います」
悪意から生まれた金が、未来を育むための力に変わる。それこそが、この戦いの、最も美しい終わり方だと、私は信じていた。
私の計画を聞き終えたアレス様は、何も言わなかった。ただ、彼の厳しい表情が、ほんのわずかに、和らいだように見えた。
「……それが、最も合理的な使い方だろう」
その、彼らしい不器用な賛辞に、私の耳の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
*
それから、一週間が過ぎた。
王都から取り寄せた新聞の一面には、ヴァルト商会とオルブライト子爵の連名で、小さな謝罪広告が、確かに掲載されていた。その、無機質な活字の羅列は、長く続いた噂戦の、公式な死亡宣告だった。
その日の午後、公会の執務室で会計帳簿の確認をしていた私の元へ、ブランドンが訪れた。
「奥様、ご報告いたします」
彼は、恭しく一礼すると、一枚の通信記録を、私の机に置いた。
「先ほどの通信で、王都の銀行より、指定口座へ賠償金の全額が振り込まれたとの確認が取れました」
その、あまりにも事務的な報告が、この戦いの、本当の終幕を告げていた。
デマを印刷するために使われたインクの代金は、巡り巡って、今、北の地の未来を担う若者たちのための、確かな希望となって、私たちの手の中にある。
「ありがとう、ブランドン。すぐに、基金設立の手続きを始めましょう」




