第177話 砂上の城
市民という最も強力な盾を得てから、街の空気は嘘のように凪いでいた。あれほど執拗に撒き散らされた悪意のビラは一枚残らず姿を消し、ヴァルト商会の男たちが根城にしていた宿屋の前も、今では子供たちの屈託ない笑い声が響いている。潮目が変わるというのは、こういうことを言うのだろう。一度流れが変われば、逆らう者はただ押し流されるだけだ。
公会本部の執務室で、私は積み上がった定例報告書に最後の署名をしていた。レオが考案した新しいパイの売れ行きは上々で、加盟店全体の売上も先月比で一割以上伸びている。数字は、街が活気を取り戻していることを静かに、しかし雄弁に物語っていた。
*
その日の夕刻、私は屋敷の書斎でアレス様と向かい合っていた。彼が執務を終えるのを待ち、公会の運営状況を報告するのが最近の日課になっている。私が一通りの報告を終えると、彼は一つ頷き、傍らに控えていたブランドンに視線を送った。
「ブランドン、王都の件を」
「はっ。かしこまりました」
執事長は恭しく一礼すると、私に向き直った。彼の表情はいつも通り無感動だったが、その手にした書類が最終報告書であることを私は察した。
「奥様。先日来、王都にて調査を進めておりました、例の勢力に関するご報告です」
「ええ、聞かせてちょうだい」
「まず、ヴァルト商会へ資金提供を行っていた複数の貴族、及び商工会が、本日付で商会との一切の関係を断絶する旨を、公爵家の法務部を通じて公式に通達してきました」
その報告は、予想の範囲内だった。勝ち目のない戦いに、いつまでも固執するほど彼らは愚かではない。利益のために集まった者たちは、不利益を悟れば霧のように消えていく。
「まあ、当然の結果ですわね」
私が静かに相槌を打つと、ブランドンは淡々と続けた。彼の次の言葉こそが、今回の騒動の醜い本質を白日の下に晒すものだった。
「そして、彼らは今、互いに責任をなすりつけ合っている、とのことです」
*
「責任のなすりつけ合い、ですか」
私の問い返しに、ブランドンは手元の報告書に目を落とした。
「はい。ヴァルト商会の代表は、我々の尋問に対し『全ては宮内卿オルダス様の側近である、オルブライト子爵の指示であった』と証言しております。ですが、当のオルブライト子爵は『一介の商人が、我々の名を騙って勝手に暴走しただけだ』と主張し、一切の関与を否定している模様です」
その言葉を聞き、私の口元に乾いた笑みが浮かぶのを止められなかった。あれほど巧妙に連携し、私たちを追い詰めようとした者たちの末路がこれだ。共通の敵を失った途端、彼らの結束は内側から脆くも崩れ始めたのだ。
アレス様は、その報告を黙って聞いていた。彼は、まるで退屈な芝居の結末を聞かされるかのように、興味もなさそうに指を組んでいる。
「さらに」とブランドンは続けた。「密偵の報告によりますと、昨夜、オルブライト子爵の屋敷に乗り込んだヴァルト商会の代表が、金の返済を巡って子爵と罵り合いの末、衛兵に追い出されるという騒ぎがあったとか。もはや、統制は完全に失われております」
その光景を想像し、私は静かに目を閉じた。私の心に湧き上がったのは、勝利の高揚感ではなかった。ただ、深い納得があった。憎しみや嫉妬で繋がった関係など、所詮はその程度なのだ。彼らが築き上げようとしたものは、しっかりとした土台のない、脆い砂の城でしかなかったのだと。
「見苦しい限りだな」
それまで沈黙を守っていたアレス様が、静かに、しかし切り捨てるように言った。
「彼らの繋がりは、共通の利益と私への敵意という、二つの砂の柱で支えられていただけだ。柱が両方折れた今、城が崩れるのは当然の理屈だ」
彼の、どこまでも冷静な分析が、この騒動の全てを言い表していた。
ブランドンが深々と頭を下げ、報告を終える。書斎には、暖炉の薪がはぜる音だけが、静かに響いていた。




