第176話 潮の変わり目
私がエドガー記者に二行だけのコメントは王都日報の一面を飾り、瞬く間に北の地へも伝わった。それは、嵐の後の静けさではなく、風向きが完全に変わったことを知らせる、力強い風の音のようだった。
街の空気は、目に見えて変化していた。
「奥様、もう誰もあのビラのことなど信じていませんわ」
侍女長のフィーは、公会本部へ向かう馬車の中で、興奮を隠せない様子で報告した。彼女が言う通り、以前私が感じたような探るような視線は、もうどこにもなかった。すれ違う人々が私たちに気づくと、ある者は尊敬の念のこもった眼差しを向け、ある者ははにかむように小さく会釈をした。彼らの視線は、もう迷ってはいなかった。
公会の入り口には、先日私が掲示させた巨大な会計帳簿と、王都日報の特集記事、そして私のコメントが載った最新の記事が、三つ並べて張り出されている。その前には常に人だかりができていたが、そこに漂う空気はもはや不安や疑念ではない。自分たちの街で起きている正しい変化を、誇らしげに確認するような、明るい熱気に満ちていた。
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「奥様、昨夜のことなんですが」
執務室で報告書の確認をしていると、見習い料理人のレオが、少し頬を紅潮させながら入ってきた。
「昨夜、仕事帰りに仲間と酒場に寄ったんです。そうしたら、隅の席で例のヴァルト商会の連中が、まだ懲りずに公会の悪口を言っていたんですよ」
レオは、悔しそうに拳を握りしめた。
「僕が何か言ってやろうかと思った、その時でした」
彼の話によれば、声を上げたのは彼ら料理人ではなかった。カウンターで黙って酒を飲んでいた、体格の良い港の船乗りたちだったという。
「おい、よそ者。飯がまずくなるような話は、他所でやれや」
低い、しかし凄みのある声だった。ヴァルト商会の男たちが何か言い返そうとすると、今度は酒場の主人が、カウンターの向こうから冷たい声で言った。
「あんたらに出す酒はもうねえよ。とっとと出ていってくれ。うちの店は、公会に加盟している大事な客たちの憩いの場なんでな」
その言葉が決定打だった。周囲の客たちの、冷たく非難するような視線に晒され、商会の男たちは顔を真っ赤にして、すごすごと店を出ていったという。
「スカッとしました」レオは、まるで自分の手柄のように、誇らしげに胸を張った。「もう、僕たちだけじゃない。この街のみんなが、奥様と公会の味方です」
その報告は、何よりも雄弁に潮目の変化を物語っていた。支持の輪は、もはや公会の内部だけにとどまらず、この街で働き、暮らす、ごく普通の人々の間にも、確かな根を張っていたのだ。
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変化は、それだけではなかった。
その日の午後、私はフィーだけを伴い、目立たないようにマントを羽織って中央市場の様子を見に行った。活気に満ちた市場の空気はいつもと変わらない。だが、ある路地裏に差し掛かった時、私たちは数人の男たちが一人の男を取り囲んでいる光景を目にした。
取り囲まれている男の手には、見覚えのある悪質なビラが握られている。そして、彼を厳しい顔で囲んでいるのは、市場で働く肉屋の主人や、パン屋の若い職人といった、見知った顔ぶれだった。
「おい、あんた。まだそんな汚い紙を配ってんのか」
肉屋の主人の、怒りを抑えた低い声が響く。
「俺たちの街を、これ以上汚すんじゃねえ。俺たちはな、公爵夫人と、あの公会のおかげで、前よりずっと良い暮らしができるようになったんだ。それを邪魔する奴は、誰であろうと許さねえぞ」
ビラを持った男は、市民たちの静かだが揺るぎない怒りの前に青ざめ、なすすべもなく立ち尽くしている。やがて彼は、持っていたビラをその場に放り出すと、脱兎のごとく逃げ去っていった。
残された市民たちは、地面に散らばったビラを忌々しげに拾い集め始めた。その時、一人が私たちの存在に気づき、ぎょっとした顔をした。
「こ、公爵夫人……!」
彼らは慌てて姿勢を正した。私は、彼らに向かって静かに微笑みかけた。
「ありがとう。皆さんのおかげで、街の誇りが守られました」
私の言葉に、無骨な男たちは、照れくさそうに、しかし、どこか誇らしげに、ごしごしと頭を掻いていた。
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夜、屋敷に戻ると、書斎でアレス様が私を待っていた。彼の前には、執事長のブランドンが控え、いくつかの報告書を手にしている。
「ヴァルト商会は、完全に孤立しました」
私が部屋に入ると、アレス様は報告の続きを促すように、ブランドンに目配せした。
「はい」ブランドンは私に一礼すると、手元の書類に目を落とした。「市内のどの商人からも取引を拒否され、食料や薪といった生活必需品の調達にも事欠いている模様です。彼らが宿泊している宿屋も、他の宿泊客からの苦情を理由に、明日付での退去を申し渡したとのこと」
ブランドンの報告は、淡々とした事実の羅列だった。だが、その内容は、敵がいかに追い詰められているかを如実に示していた。
「彼らが金で雇っていた者たちも、市民による自発的な監視の目に恐れをなして、ほとんどが活動を停止。すでに何人かは、夜逃げ同然に王都へ戻ったとの情報も入っております」
ブランドンは、そこで一度言葉を切ると、私の方に向き直った。
「奥様。今や、彼らの方が『私怨のために、北の地の発展を妨害する卑劣な人々』として、市民から明確に敵視される存在となっております」
その言葉は、この戦いの力関係が、完全に逆転したことを告げていた。
彼らが放った言葉の毒は、街の人々の健全な良識と、事実という光によって浄化され、巡り巡って、彼ら自身を蝕み始めていたのだ。
私は、その報告を静かに聞いていた。勝利を喜ぶ気持ちはなかった。ただ、この街の人々が、誰かに扇動されるのではなく、自分たちの目と耳で真実を選び取ってくれたという事実が、私の胸を静かな感動で満たしていた。
「ご苦労様、ブランドン。引き続き、監視を続けてください」
アレス様の低い声が、書斎の静寂に響いた。潮は、確かに変わった。あとは、この流れを決定的なものにする、最後の仕上げを残すのみだった。




