第174話 王都のペン
嵐のような拍手と喝采が、古い集会所の天井を揺らしていた。
その熱狂の中心にいるのは、壇上に立つ一人の女性。アレスティード公爵夫人、レティシア。彼女はただ静かに頭を下げているだけだというのに、その姿はまるで軍を率いる将軍のように、気高く、そして力強く見えた。
会場の後方の席で、エドガーはその光景を腕を組んで見つめていた。彼の職業は、王都の大手新聞社「王都日報」の記者。北の地で起きている新しい変化と、それに伴う不穏な噂の真相を探るため、自ら志願してこの凍てつく土地へやって来たのだ。
王都で彼が聞いていた話は、こうだ。北の公爵夫人は聖女の仮面を被った強欲な女で、貧しい若者を搾取して私腹を肥やしている、と。そのスキャンダル記事を書けば、新聞は飛ぶように売れるだろう。編集長もそれを期待していた。
だが、今、彼の目の前で繰り広げられている光景は、その噂とはあまりにもかけ離れていた。搾取されているはずの若者たちが、彼女の名を呼び、その功績を讃えて熱狂している。これは一体どういうことだ。
彼のジャーナリストとしての長い経験が、警鐘を鳴らしていた。これは、単なる地方のゴシップ騒動ではない。この熱狂の裏には、もっと大きく、そして重要な物語が隠されている。
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総会が終わり、組合員たちが興奮冷めやらぬ様子で会場を後にしていく。ほとんどの者は、入り口に掲示された巨大な会計帳簿の前に群がり、その数字の羅列を食い入るように見つめていた。
他の記者であれば、今こそ壇上の公爵夫人に殺到し、勝利のコメントを引き出そうとするだろう。しかしエドガーは、彼女には向かわなかった。彼の興味は、権力者の言葉よりも、その権力が及ぼす現場の変化にあった。彼は、あの巨大な帳簿よりも雄弁な「証拠」を探すことを決めた。
彼の視線は、会場の隅で仲間たちと熱っぽく語り合う、一人の若い料理人に向けられた。年は二十歳前後だろうか。その生き生きとした表情には、デマに書かれていた「奴隷同然」の若者の影は微塵もなかった。あの青年こそが、彼の最初の取材対象だった。
エドガーは人混みを抜け、その青年の元へ近づいた。
「失礼、少しよろしいだろうか」
声をかけると、青年は仲間との会話を中断し、怪訝な顔でエドガーを見返した。その鋭い視線に、都会の人間に対する警戒心が滲んでいる。
「王都日報の記者、エドガーと申します。あなたに、少しだけお話を伺いたい」
エドガーは身分証を提示し、できるだけ穏やかな声で言った。記者の名を聞いた青年の表情が、さらに険しくなる。
「あんたも、あのくだらないビラと同じことを聞きに来たのか。だったら、話すことなんか何もない」
「いいや、違う」エドガーは静かに首を振った。「私は、あのビラに書かれていない、本当の話が聞きたい。君自身の口から」
その真摯な言葉に、青年の警戒心が少しだけ解けたようだった。彼はレオと名乗り、渋々ながらもエドガーの取材に応じることを承諾した。
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集会所の廊下の片隅で、レオは壁に背をもたれながら、ぽつりぽつりと語り始めた。それは、王都の厨房で夢破れ、希望もなくこの北の地に戻ってきた、一人の若者の物語だった。
「公会に来る前は、日雇いの皿洗いで食いつないでいました。料理人になるなんて、もう諦めていた」
レオは、遠い目をして床の一点を見つめている。
「デマに書かれていた給金の話ですが」エドガーは手にしたメモ帳にペンを走らせながら、核心に触れる質問を投げかけた。「搾取されている、というのは事実だろうか」
その質問に、レオは鼻で笑った。
「冗談でしょう。給金は、皿洗いをしていた頃の倍以上です。でも、問題はそんなことじゃない」
レオは、そこで初めてエドガーの顔をまっすぐに見つめた。その瞳には、強い光が宿っていた。
「奥様は……レティシア様は、俺たちに技術だけじゃない、料理人としての誇りを教えてくれたんです。自分の料理で、客が笑ってくれる。その喜びを、初めて知った。金なんかより、そっちの方がずっと大事だ」
エドガーは、その言葉を一つ一つ、冷静に、しかし、心のどこかで熱くなるのを感じながらメモに書き留めていく。彼のペンは、単なる事実の記録ではなく、一人の人間の人生が救われた瞬間を、確かに刻んでいた。
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レオへの取材を終えたエドガーが次に向かったのは、彼が働くという街の宿屋だった。彼は、自分の足で裏付けを取ることを信条としていた。
宿屋の主人は、恰幅のいい中年男性で、最初は記者だと名乗ったエドガーを追い返そうとした。しかし、エドガーがレオから聞いた話を正直に伝えると、主人は腕を組み、大きなため息をついた。
「あんた、物分りのいい記者らしいな。いいだろう、座れ」
帳場の椅子に腰を下ろした主人から語られたのは、公会がもたらした街の変化だった。
「昔は、この辺りの宿屋も食堂も、お互いを敵としか見ていなかった。客の奪い合い、足の引っ張り合い。それが当たり前だった」
しかし、レティシアが公会を作ってから、全てが変わったという。
「奥様は、俺たち商売敵を、この街を良くするための『仲間』に変えちまったんだ。技術講習会でレシピを共有し、共同で食材を仕入れることで経費を削減する。そうやって、街全体の食い物のレベルが、底上げされた。結果、どうなったと思う? よそから、わざわざ飯を食いに来る客が増えたんだ。どの店も、前よりずっと繁盛してる」
主人の言葉には、揺るぎない実感がこもっていた。エドガーは、王都で聞いてきた噂と、今この場で聞いている現実との間に横たわる、あまりにも巨大な溝に愕然とした。これは、単なる誤報や勘違いではない。明確な悪意を持って、この北の地で起きている素晴らしい変化そのものを、潰そうとする力が働いている。彼は、それを確信した。
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その日の夜、エドガーは宿の一室で、ランプの灯りの下、一人机に向かっていた。
彼の目の前には、白紙の原稿用紙と、インク壺、そして今日一日でびっしりと書き込まれた取材メモが置かれている。
王都の編集長が求めるであろう、扇情的なスキャンダル記事の構想は、彼の頭の中からは完全に消え去っていた。そんな、安っぽい嘘を書き連ねることは、彼のジャーナリストとしての誇りが許さなかった。
彼が書くべきは、別の物語だ。一人の女性が始めた小さな改革が、いかにして人々の心を変え、街全体に新しい活気と誇りをもたらしたか。その、静かで、しかし、確かな革命の記録だ。
エドガーは、ペンを手に取ると、インクに浸した。そして、原稿用紙の一番上に、この記事のタイトルとなるべき言葉を、静かに、しかし、力強い筆致で書き記した。
『北の地で生まれる、新しい誇り』




