第173話 光の下の帳簿
デマは清らかな水に落ちた一滴のように、瞬く間に広がり、人々の心の透明さを濁らせていた。温食公会の月次総会が開かれるその日、空は冬らしく低く垂れ込めていたが、雪は降らなかった。
市の中心部にある集会所へ向かう道すがら、私はその濁りを肌で感じていた。すれ違う人々の視線に、以前はなかった種類の好奇心と、探るような色合いが混じっている。彼らは敵ではない。ただ、不安なのだ。自分たちの街で生まれた新しい希望の光に、本当に影があるのかどうか。
集会所の前には、すでに何人かの市民が遠巻きに集まり、ひそひそと何かを囁き合っていた。その光景を横目に見ながら、私は少しも歩みを緩めずに、建物の重い扉を開けた。
*
会場の中は、外の冷気とは違う種類の、重く張り詰めた熱気で満たされていた。百人を超える組合員たちが、長椅子に隙間なく座っている。パン屋の主人、宿屋の女将、市場で働く若者、そしてレオのような見習い料理人たち。その誰もが、固い表情で黙り込んでいた。不安、デマに対する怒り、そして壇上に立つ私にこれから何を求めるのかという、複雑な期待。それら全てが、無言の圧力となって、私の全身にのしかかってくる。
私は、侍女長のフィーに上着を預けると、壇上へと続く数段の階段を、ゆっくりと、しかし確かな足取りで上った。そして、集まった全員の顔を、一人一人見渡すように、ゆっくりと視線を巡らせた。
ざわ、と会場にかすかな揺らぎが走る。私が何か、特別なことを言うのではないかと、誰もが固唾を呑んで待っていた。
だが、私は、彼らが期待する言葉を、すぐには口にしなかった。
「それでは、定刻となりましたので、温食公会、十二月度の月次総会を始めます」
私の声は、いつもと変わらない、落ち着いた声量で会場に響き渡った。私は、噂については一言も触れず、手元の次第書に従って、淡々と議事を進め始めた。
「最初の議題は、先月新たに加盟された三店舗の紹介です。東地区の『麦の穂亭』……」
私のその態度に、会場は逆に静まり返った。彼らは、私がこの場でデマに対する反論や、感情的な糾弾を始めるのだと、どこかで予想していたのだろう。だが、私はその予想を裏切り、「いつも通り」の公会の日常を、ただ粛々と進めていく。
新加盟店の主人が緊張した面持ちで立ち上がり、短い挨拶をする。私はそれに温かい拍手を送り、次の議題へと移った。
「次に、冬期備蓄計画の進捗について。各地区の担当者より報告をお願いします」
指名された者たちが次々と立ち上がり、塩漬け肉の在庫数や、乾燥野菜の貯蔵量といった、具体的な数字を報告していく。それは、この公会が噂話など意にも介さず、人々の生活を守るために、いかに堅実に機能しているかという、何より雄弁な証明だった。
報告が終わるたびに、私は的確な質問を投げかけ、次の課題を明確にしていく。その、一切の無駄がない進行に、組合員たちの間にあった動揺の色が、少しずつ薄れていくのが分かった。彼らは、目の前の現実――この力強く機能している組織の姿――を再認識することで、目に見えない噂への不安を、少しずつ克服し始めていた。
いくつかの通常議題を終え、最後の報告が完了した時、私は次第書から顔を上げた。
「以上で、本日の議題は全て終了となりますが」
私は、そこで一度、言葉を切った。会場の全ての視線が、再び私の一点に集中する。
「最後に、臨時議題として、皆さんにご報告しなければならないことがあります」
来た。誰もがそう思っただろう。会場の空気が、再びピンと張り詰めた。
「本日、この場で、温食公会の第一期、会計監査報告を行います」
*
その言葉は、彼らの予想を、再び少しだけ裏切るものだった。感情的な反論ではない。ただ、事実の報告。組合員たちの間に、当惑の囁きが広がった。
私は、壇上の脇に控えていたフィーと、数人の職員に目配せをした。彼らは頷くと、舞台袖から、巨大な何かを運び出してきた。
それは、数枚の大きな模造紙を繋ぎ合わせた、巨大な一覧表だった。高さは人の背丈ほどもあり、幅は壇上のほとんどを覆い尽くさんばかりだ。そして、その白い紙の上には、几帳面な文字で、無数の項目と数字が、隙間なくびっしりと書き込まれていた。
職員たちが、その巨大な帳簿を、壇上の中央に設置されたイーゼルに掲げると、会場から、どよめきとも感嘆ともつかない声が漏れた。
私は、その帳簿の横に立つと、一本の長い指示棒を手に取った。
「今から、この公会が設立されて以来の、全ての収入と支出について、銅貨一枚に至るまで、ご説明いたします」
私の静かな宣言に、会場は水を打ったように静まり返った。
私は、まず指示棒で「収入の部」と書かれた一番上の項目を示した。
「収入の第一は、皆さんからお預かりしている組合費です。総額は、金貨にして二百七十枚と銀貨三枚。ここに、全組合員のリストと、各々の納付状況が記録されています」
次に、その下の項目を指す。
「第二に、寄付金。最大のものは、後援者であるアレスティード公爵家からのもので、金貨五百枚。その他、匿名の支援者からのものが、合計で金貨三十五枚。収入は、以上です」
私は、一呼吸置くと、今度は「支出の部」へと指示棒を移した。
「次に、支出です。まず、この公会本部の賃料及び維持費。水道光熱費を含め、月平均で金貨十五枚。次に、職員への給与。現在、常勤職員五名に対し、合計で月々金貨二十五枚を支払っています。これは、この地方の平均的な給与水準を、わずかに上回る額です」
私は、組合員たちの顔を一人一人見ながら、説明を続けた。彼らは、もはや誰一人として、私語を交わす者はいなかった。ただ、食い入るように、巨大な帳簿と、それを指し示す私の指示棒の先を、交互に見つめている。
「そして、講習会の運営費用。食材費、資料の印刷代、外部講師への謝礼など、合計で金貨百十二枚。ここに、全ての領収書の控え番号が記載されています。原本は、あちらの書棚で、いつでも閲覧可能です」
一つ、また一つと、事実が積み重ねられていく。そこに、曖昧な言葉は一つもない。全てが、検証可能な数字と、記録に基づいていた。
そして、私は、最後に、支出の部の末尾にある、一つの項目を、指示棒で、とん、と軽く叩いた。
「最後に、役員報酬」
会場の全員が、息を呑んだ。
「ギルドマスター、レティシア・アレスティード。報酬」
私は、そこに記された文字を、はっきりと、全員に聞こえるように、読み上げた。
「ゼロ、です」
その言葉が響き渡った瞬間、会場の空気が、完全に変わった。
驚きが、安堵に変わり、そして、静かな怒りへと。デマを流した、顔の見えない敵に対する、清廉な怒りへと。
私は、指示棒を静かに置くと、組合員たちに向き直った。
「この帳簿は、本日、この総会が終了した後、公会本部の入り口に、誰でも閲覧できるよう、掲示します。組合員でない、一般の市民の方々にも、自由にご覧いただけます」
私は、会場の隅から隅まで、もう一度、ゆっくりと見渡した。
「私たちの活動に、隠し立てするものは、何一つありません」
その言葉を最後に、私は深く、一礼した。
一瞬の、完全な沈黙が、会場を支配した。
そして、次の瞬間。
後方の席に座っていた一人の若い料理人が、おずおずと、拍手を始めた。その小さな音が、引き金になった。一人、また一人と、拍手の輪が広がり、それはやがて、地鳴りのような、嵐のような大喝采となって、会場全体を揺るがした。
私は、その喝采の嵐の中で、静かに顔を上げた。
反論の余地のない「事実」という光が、暗い影を完全に消し去った瞬間だった。




