第172話 糸を手繰る
アレスティード公爵家の屋敷に戻った私は、長い廊下を迷いなく進んでいた。向かう先は一つしかない。私の手の中には、街で撒かれた悪意のビラが、固く握りしめられている。この戦争を始めるにあたり、まず共有すべきは最高司令官である彼だった。
書斎の重厚な扉をノックすると、中から低く落ち着いた声で「入れ」と応答があった。
部屋に入ると、アレス様はいつものように巨大な執務机に向かい、山と積まれた書類に目を通していた。私が部屋に入ったことに気づくと、彼はペンを置き、静かに顔を上げた。その灰色の瞳が、私のただならぬ気配を正確に読み取っているのが分かった。
「どうした。何か問題でも起きたか」
「はい。大きな問題が、です」
私は、彼の机の前まで進み出ると、手にしていたビラを、彼の目の前に広げて置いた。
「今朝から、街のあちこちに、これが貼られていたそうです」
アレス様は、その紙片に視線を落とした。扇動的な見出し、そして事実を歪曲した悪意に満ちた文章。彼がその全てを読み終えるまで、私は黙って待っていた。書斎には、暖炉の薪が静かにはぜる音だけが響いている。
やがて、彼は顔を上げた。その表情に、怒りや驚きといった分かりやすい感情は浮かんでいない。だが、その灰色の瞳の奥に、絶対零度の氷のような光が宿るのを、私は見逃さなかった。
「……くだらない真似を」
静かな、しかし地の底から響くような低い声で彼が呟いた。
「分析は済ませました」と私は続けた。「使われている紙は、王都の下町でしか流通していない安価な木材パルプ紙。印刷は、この地方にはない小型の新型印刷機によるものと思われます。そして、この文章。大衆の嫉妬と不安を煽ることに長けた、専門的な人間が書いたものでしょう。個人的な怨恨による犯行ではありません。明確な意図を持った、計画的な政治攻撃です」
私の報告を聞きながら、アレス様は再びビラに視線を落とし、その紙の縁を指でなぞった。
「お前の見立て通りだろう。敵は、我々の足元を内側から崩そうとしている」
彼は、机の上に置かれた小さなベルを鳴らした。ほとんど間を置かずに扉が開き、執事長のブランドンが音もなく入室する。
「お呼びでしょうか、閣下」
「ああ」
アレス様は、ブランドンにビラを指し示した。ブランドンはそれに素早く目を通すと、表情一つ変えずに、主の次の言葉を待った。
「印刷所を特定しろ」
アレス様の命令は、短く、そして絶対的だった。
「このビラに使われている紙とインク、そして活字の痕跡から、王都に存在する全ての印刷所を洗い出せ。金の流れもだ。ここ数ヶ月の間に、北の地に関わる不審な金の動きがなかったか、取引記録を全て洗え」
「かしこまりました。直ちに」
ブランドンは深々と一礼すると、命令を遂行するため、静かに部屋を退出していった。公爵家が持つ、巨大で緻密な情報網が、今、静かに動き出す。
書斎には、再び私とアレス様だけが残された。
「水面下の調査は、あなたにお任せします」と私は言った。「わたくしは、水の上を動きます。このデマを打ち消すための、別の戦いを」
「好きにしろ」
彼は、短く答えた。その言葉の中に、私への絶対的な信頼が込められていることを、私は知っていた。「お前のやり方で、この火を消せ」と、彼は言っているのだ。
「はい。では、失礼いたします」
私は一礼し、書斎を後にした。これから私が始めるのは、スパイや密偵が暗躍する裏の戦いではない。光の下で、人々の信頼を武器に行う、正々堂々とした情報戦だ。
*
その日の午後、私は公会本部の集会所に、加盟店の主だった者たちを緊急に集めていた。レオのような若い料理人から、古参の宿屋の主人まで、三十人ほどの顔が、不安と怒りが入り混じった表情で私を見つめている。集会所の空気は、街に広がったデマのせいで、重く張り詰めていた。
私は、壇上に上がると、集まった全員の顔をゆっくりと見渡した。そして、静かに口を開いた。
「皆さん、今、街で出回っているビラのことは、すでにご存知のことと思います」
ざわ、と会場が揺れる。何人かが、悔しそうに拳を握りしめているのが見えた。
「書かれている内容は、全て嘘です。断言します」
私のきっぱりとした言葉に、会場の空気が少しだけ和らぐ。
「ですが」と私は続けた。「問題は、それが嘘であることではありません。問題は、その嘘によって、私たちが築き上げてきたこの公会への信頼が、傷つけられようとしていることです。これは、私個人への攻撃ではありません。私たちの仕事、私たちの誇り、そして、私たちの未来に対する、卑劣な攻撃です」
私の言葉に、彼らの目の色が変わった。これは、他人事ではない。自分たちの戦いなのだと、彼らの表情が語っていた。
「そこで、皆さんに、お願いがあります」
私は、集まった人々に向かって、深く頭を下げた。
「この攻撃に対抗するため、皆さんの力を貸してください。敵は、影に隠れて石を投げてきています。ならば、私たちは、光の下で、その石を投げる者の正体を暴き出さなければなりません」
私は、具体的な依頼内容を告げた。
「ここ数日の間に、ビラを配っていた人物の特徴を、思い出してください。どんな些細なことでも構いません。服装、背格好、言葉の訛り。あるいは、最近、皆さんの店の周りで見かけた、不審な人物について。常連ではないのに、やたらと詮索好きな客はいませんでしたか。路地裏で、誰かとこそこそと話している人影を見かけませんでしたか」
私は、彼らの目を一人一人見つめながら、最後の言葉を告げた。
「皆さん一人一人の目が、耳が、私たちの武器になります。どうか、力を貸してください」
私の言葉が終わると、一瞬の沈黙が落ちた。そして、その沈黙を破ったのは、レオの働く宿屋の主人だった。
「当たり前です、奥様! 俺たちの店と生活を、あんたは守ってくれたんだ。今度は、俺たちが、あんたとこのギルドを守る番だ!」
その声を皮切りに、「そうだ!」「任せてください!」「絶対に、犯人を見つけ出してやる!」という声が、次々と上がった。彼らの目には、もう不安の色はなかった。そこには、共通の敵に立ち向かう、強い決意の光だけが宿っていた。
*
それから数日間、公会本部の私の執務室は、さながら情報戦略室の様相を呈していた。
加盟店の主人や従業員たちから寄せられた情報が、小さなメモの形で、壁に貼られた街の地図の上に、次々とピンで留められていく。
「中央広場でビラを配っていたのは、背の高い男。身なりは良いが、王都訛りが強かった、とパン屋の主人が」
「港地区の酒場で、ギルドの悪口を言いふらしていた二人組がいたそうです。彼らも、訛りからして、この地方の者ではなかったと」
フィーやレオが、寄せられた情報を整理し、読み上げていく。最初はバラバラに見えた情報が、集積されるにつれて、少しずつ、しかし確実に、一つの輪郭を結び始めていた。
犯人グループは、複数名で構成されている。彼らは、この土地の人間ではない。そして、周到に準備し、計画的にデマを流布している。
そして、三日目の夕暮れ時。決定的な情報がもたらされた。
街の裏通りで小さな食堂を営む、無口な初老の店主が、自ら公会本部を訪ねてきたのだ。彼は、私の前に立つと、ごわごわした手で頭を掻きながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「うちの店の裏の路地で、ここんとこ毎晩のように、怪しい連中が密会しておりやした。例のビラが出回る、少し前からでさあ」
私は、身を乗り出して彼の言葉の続きを促した。
「その連中が、例のビラを配っていた男たちに、何か指示を出しているようでした。それで、気になって……連中がどこの人間か、後をつけてみたんでさ」
彼の、思いがけない行動力に、私は息を呑んだ。
「連中は、最近、東地区に支店を出した、大きな商会に入っていきやした。確か……ええと」
彼は、記憶の糸を手繰るように、しばらく目を閉じていた。そして、ゆっくりと目を開けると、確信に満ちた声で、その名前を告げた。
「ヴァルト商会。確か、そう名乗っておりやした」
ヴァルト商会。
その名を聞いた瞬間、私の頭の中で、最後のピースが、カチリと音を立ててはまった。アレス様から、王都の勢力図について事前に共有されていた情報。その中に、その商会の名前は、確かにはっきりと記されていた。
宮内卿オルダスに連なる、冷製派貴族の御用商人。
「……ありがとう」
私は、店主に、心の底からの感謝を告げた。「本当に、ありがとう。これで、糸が繋がりました」
店主が安堵の表情で退出していくのを見送った後、私は、壁の地図の前に立った。そこに記された、無数の情報と、ヴァルト商会の支店の位置を、一本の線で結ぶ。
敵の尻尾は、確かに掴んだ。あとは、この糸を手繰り、その先にいる、蜘蛛の巣の主を、白日の下に晒すだけだ。私の心は、静かな闘志で、満たされていた。




