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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第171話 墨の染み

 セシリアの自立を見届け、私の心はようやく本当の平穏を得たはずだった。実家という過去の呪縛は法という名の盾によって完全に断ち切られ、もう二度と私の人生に交わることはない。その確信が、私に本当の意味での自由を与えてくれていた。

 北の地には穏やかな冬の日常が流れている。温食公会の運営は完全に軌道に乗り、加盟店の経営も安定していた。私の毎日は、公会本部の執務室で帳簿の数字と向き合い、来春に向けた新しい講習会のカリキュラムを練り、そして厨房で兵士たちのための新しい携行食の試作を繰り返すことで、目まぐるしく、しかし充実して過ぎていく。

 過去は、ようやくその重い扉を固く閉ざしたのだ。私はそう信じ始めていた。その、油断ともいえる平穏が、一枚の粗末な紙によって唐突に破られることになるとは、まだ知らなかった。



 その日も私は、公会本部の執務室で、加盟店から提出された在庫管理報告書に目を通していた。数字の羅列から、各店の経営状態や季節による食材の需要の変化を読み解く作業は、前世の経験もあってか少しも苦にはならない。むしろ、この地道な作業こそが、多くの人々の生活を支える土台なのだという確かな手応えが、私の心を静かに満たしていた。

 不意に、執務室の扉が、儀礼的なノックもそこそこに、勢いよく開かれた。

「奥様!」

 許可を待たずに飛び込んできたのは、侍女長のフィーだった。彼女はいつも冷静沈着な女性だが、今はその顔を憤怒に紅潮させ、肩で大きく息をしている。そのただならぬ様子に、私は手にしていたペンを静かに置いた。

「どうしたの、フィー。そんなに慌てて」

「慌てずにおれましょうか!」

 フィーは、私の言葉を遮るように叫ぶと、数歩で机の前に進み出た。そして、くしゃくしゃに握りしめていた一枚の紙を、まるで憎しみを叩きつけるかのように、私の目の前の机に広げた。

「これをご覧ください! 今朝、街の辻という辻、酒場の壁という壁に、これが貼られていたのです!」

 それは、安物のざらついた紙に、黒いインクで何かが印刷された、粗末なビラだった。私はその紙片に視線を落とし、そして、そこに踊る扇情的な見出しの文字を、ゆっくりと目で追った。


『聖女の仮面を被った公爵夫人、公会の金を私的に流用か?』


 その見出しの下には、さらに小さな文字で、悪意に満ちた文章がぎっしりと並んでいた。


『貧しい若者たちに働く場を与えると謳う「温食ギルド」の実態は、公爵夫人の私腹を肥やすための搾取機関であった! 関係者の証言によれば、公爵夫人は実家であるラトクリフ伯爵家が抱える莫大な借金を、公会の資金から不正に返済している疑いが濃厚である。さらに、ギルドで働く見習い料理人たちは、最低限の食事しか与えられず、奴隷同然の低賃金で長時間労働を強いられているという。我々は、北の地を蝕むこの偽りの聖女の正体を、断じて許してはならない!』


 書かれていることの全てが、完璧な嘘だった。私の実家はすでに破産同然であり、私が援助する術も意志もない。公会の会計はガラス張りで、私の給金はゼロだ。そして、見習いたちの労働環境は、私が最も心を砕いて整備した部分だった。

「許せません……!」

 フィーが、唇を震わせながら呻く。

「奥様が、どれほど皆のために心を尽くしてこられたか。それを、こんな……こんな汚い言葉で踏みにじるなんて!」

 彼女の怒りは、私自身の怒りでもあった。だが、その燃え上がるような感情とは裏腹に、私の頭は氷のように冷えていくのを感じた。怒りに身を任せれば、相手の思う壺だ。

 私は、フィーの憤慨を横目に、そのビラを冷静に指先でつまみ上げた。怒りよりも先に、分析する癖が頭をもたげる。これは、私が前世で嫌というほど経験してきた、ネガティブキャンペーンの手法そのものだった。

 まず、紙質を確かめる。指先に伝わる粗末な手触り。これは、この地方で一般的に使われている羊皮紙ではない。王都の下町でしか流通していない、安価な木材パルプ紙だ。

 次に、印刷の状態を観察する。インクが所々で滲み、活字の輪郭が甘い。これは、大規模な印刷所で使われるような旧式のプレス機ではなく、比較的新しい、小型で安価な印刷機が使われた証拠だ。そんな機材は、この北の地には存在しない。

 そして、文章そのもの。事実を巧妙に歪曲し、読者の嫉妬と不安を煽る扇動的な言葉選び。これは、個人的な怨恨を持つ素人が書いたものではない。明確な目的意識を持って、大衆の心理を操ることに長けた人間が、計算ずくで書き上げた文章だ。

 結論は、明らかだった。

 これは、単なる嫌がらせではない。明確な意図と、ある程度の資金力、そして王都に拠点を置く何者かによる、計画的な政治攻撃だ。私個人ではなく、この公会と、それを支えるアレスティード公爵家の統治そのものを、内側から揺さぶるための。

「……これは、戦争ね」

 私の口から、無意識に言葉がこぼれた。

「えっ?」

 聞き返したフィーに、私は静かに首を振った。

「フィー、落ち着いて。あなたのその怒りは、正しいものよ。でも、今は感情的になってはだめ。騒げば騒ぐほど、相手の思う壺だわ」

 私は、フィーの肩を軽く叩いて落ち着かせると、もう一度ビラに視線を落とした。

 墨で書かれたその黒い文字が、まるで街全体に広がっていく毒の染みのように見えた。だが、感傷に浸っている時間はない。敵が仕掛けてきた以上、こちらも応戦しなければならない。言葉の毒には、揺るぎない事実という光を当てるのが、最も効果的なのだから。

 私は、そのビラを丁寧に二つに折りたたむと、静かに席を立った。

「フィー、後のことは任せるわ。組合員たちが動揺しないよう、冷静に対応して」

「奥様は、どちらへ?」

 訝しげに問うフィーに、私はきっぱりと告げた。

「アレス様のところへ。この戦争の、最高司令官に報告しなければ」

 私は、その小さな紙片を手に、執務室を後にした。廊下の窓から差し込む冬の光は、いつもと変わらず穏やかだったが、私の心の中には、すでに静かで冷たい闘志の炎が燃え上がっていた。

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