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第16話 多すぎる魚と敵への塩

 パンの耳で作った「救済グラタン」の一件で、家令は屋敷中の笑いものになった。もちろん、表立って彼を嘲笑する者はいなかったが、使用人たちの間で交わされるひそひそ話や、憐れみと侮蔑が入り混じった視線は、彼の高いプライドを容赦なく削り取っていったことだろう。

 私は、彼がこのまま黙っているはずがないと予感していた。権威とは、一度失墜すると、それを取り戻すために往々にして無謀な行動に走るものだ。前世の会社でも、失脚した上司が起死回生を狙って無理なプロジェクトを立ち上げ、さらに大きな失敗を招く光景を何度も見てきた。

 そして、私の予感は、最悪の形で現実のものとなった。

 事件が起きたのは、それから数日後の朝のことだった。

 厨房へ向かうと、いつもとは違う異様な熱気と、魚の生臭い匂いが廊下まで漂っていた。中へ入ると、侍女長のフィーが頭を抱えて立ち尽くしており、他の料理人たちも途方に暮れた顔で、目の前の光景を眺めている。

 厨房の床から作業台の上まで、銀色に輝く魚、魚、魚。氷を詰められた木箱が何段にも積み重ねられ、そこから溢れ出した大量の魚が、まるで銀色の洪水のように厨房を埋め尽くしていた。北の海で獲れるという高級魚「氷白魚ひょうはくぎょ」。その名の通り、身が白く、冷製料理にすると絶品とされる魚だ。

「……一体、何があったの?」

 私の問いに、フィーが泣きそうな声で答えた。

「家令様が、王都の御用達商会に発注されたそうなのです。近々開かれる晩餐会で、伝統的な冷製料理の素晴らしさを奥様に見せつけるのだと……。ですが、業者の手違いとかで、予定の三倍もの量が届いてしまったらしく……」

 手違い、ね。焦って桁を間違えたのか、あるいは見栄を張って見当違いな量を注文したのか。どちらにせよ、結果は同じだ。この公爵家の厨房には、到底処理しきれない量の高級魚が運び込まれてしまった。

 この魚は鮮度が命だ。数日のうちに処理できなければ、その価値は失われ、ただの生ゴミと化す。そうなれば、莫大な損失となり、家令の責任問題は避けられないだろう。

「いい気味だわ」「これで少しは懲りるでしょう」「自業自得よ」

 使用人たちの囁き声が聞こえてくる。彼らの気持ちは痛いほどわかる。けれど、私は目の前の銀色の山を見つめながら、別のことを考えていた。

 見栄のため、体面のためだけに、身の丈に合わない浪費を繰り返す。そして、その失敗のツケを、誰かに押し付けようとする。その姿は、私を苦しめ続けた実家の父と、あまりにもそっくりだった。

 だからだろうか。彼の愚かさに呆れながらも、心のどこかで、ほんの少しだけ憐れみを感じていた。そして、それ以上に強く、これは好機だ、と私の頭の中の冷静な部分が囁いていた。



 私は厨房の奥で、顔面蒼白になって立ち尽くしている家令を見つけた。彼は業者と何やら言い争っていたようだが、もはや後の祭りだろう。その背中は、これまで見てきたどんな時よりも小さく、哀れに見えた。

 私はまっすぐに彼の方へ歩いていく。私の接近に気づいた彼が、びくりと肩を震わせた。その瞳には、屈辱と、焦りと、そしてわずかな怯えの色が浮かんでいる。私がこの状況を糾弾し、執事長に報告すると思ったのだろう。

 周囲の使用人たちが、固唾をのんで私たちを見守っている。誰もが、私が家令にとどめを刺す瞬間を期待している。

 だが、私は彼らの期待を裏切ることにした。

「家令。そのお魚、私が全て預かります」

 私の静かな宣言に、厨房の空気が凍りついた。家令自身も、信じられないというように目を丸くしている。

「……な、何を、言って……」

「このままでは、全て無駄になってしまいます。それは、アレスティード家の損失です。あなたの失態を責めている時間はありません。今は、この魚をどうにかする方が先決でしょう?」

 私は淡々と事実だけを告げた。彼のプライドをこれ以上傷つけないよう、言葉を選びながら。

 前世の言葉に「敵に塩を送る」というものがあった。窮地に陥った敵を助けることで、恩を売る、あるいは己の度量の大きさを示す行為。けれど、私が今からやろうとしていることは、少し違う。

 私は塩ではなく、温かいスープを送るのだ。彼の凍てついた心を、ほんの少しでも溶かすために。

「フィー、皆さん、手伝ってください!」

 私は厨房の全員に向かって、きっぱりとした声で指示を飛ばした。

「まず、魚を三つのグループに分けます。一つは燻製に。一つはパイの具材に。そして残りは、骨まで余さず使って、極上のスープの出汁を取ります!」

 私の言葉に、戸惑っていた料理人たちの顔に、次第に活気が戻ってきた。そうだ、私たちは料理人なのだ。目の前に食材があるのなら、それを最高の料理に変えるだけ。

 厨房は、一瞬にして戦場と化した。

 ゲルトさんが見事な手つきで次々と魚を捌いていく。若い料理人たちが、塩とハーブを揉み込み、燻製小屋へと運んでいく。フィーと侍女たちは、パイ生地を練り、野菜を刻む。そして私は、巨大な寸胴鍋に魚の頭や骨を入れ、香味野菜と共に煮込み始めた。

 生臭い匂いは、やがてハーブの爽やかな香り、パイ生地の焼ける甘い香り、そして魚介の旨味が凝縮された芳醇な香ばしい匂いへと変わっていった。

 家令は、その光景を、ただ茫然と立ち尽くして見ているだけだった。しかし、彼の表情から、次第に焦りや屈辱の色が消えていくのを、私は見逃さなかった。そこにあったのは、ただただ、圧倒的な手際の良さと、厨房に満ちる熱気への驚きだった。



 その日の夕食は、豪華な魚料理のフルコースとなった。

 前菜には、軽く燻製にした氷白魚のカルパッチョ。主菜には、サクサクのパイ生地の中に、クリームソースで和えた魚と野菜がたっぷり詰まった熱々のポットパイ。そして、全ての旨味が溶け出した、黄金色のコンソメスープ。

 どれも、伝統的な冷製主義からはかけ離れた、温かい料理だった。

 公爵は、無言で、しかし明らかに満足げな様子で全ての皿を空にした。使用人たちの賄いにも同じものが振る舞われ、厨房は一日中、歓声と笑顔に包まれていた。

 あれほどあった魚の山は、一日でその半分以上が、人々の胃袋へと姿を変えた。残りは長期保存が可能な燻製となり、一部はスープのストックとして冷凍された。廃棄は、ゼロ。損失どころか、屋敷の食料備蓄はむしろ豊かになった。

 全てが片付いた夜、私は自室で帳簿の整理をしていた。今日の出来事で増えた食材の在庫を記録し、今後の献立を組み立てる。静かで、満ち足りた時間だった。

 コン、コン。

 控えめなノックの音が、静寂を破った。こんな時間に誰だろうと扉を開けると、そこに立っていたのは、家令だった。

 彼は、昼間の傲慢さが嘘のように、どこか所在なげに視線を彷徨わせている。そして、私が何か言う前に、その場で深々と頭を下げた。これまで見たこともないほど、深く、長いお辞儀だった。

「……申し訳、なかった」

 床に向かって、絞り出すような声が響く。それは、彼の失態に対する謝罪であり、私に対するこれまでの無礼を詫びる言葉でもあった。

 私は何も言わず、彼が顔を上げるのを待った。やがて、ゆっくりと体を起こした彼の顔は、まだ戸惑いを浮かべてはいたが、そこに敵意の色はもうなかった。

 そして、彼はもう一度、今度は私の目をまっすぐに見て、言った。

「……ありがとう、ございました」

 その言葉は、まだ少し硬かったけれど、紛れもなく彼の本心から出たものだとわかった。

 彼の凍てついたプライドの氷が、ほんの少しだけ、カラン、と音を立てて溶けたような気がした。

 私は静かに頷き、扉を閉める。

 敵を打ち負かすよりも、敵を救うことの方が、ずっと難しい。けれど、その先には、ただの勝利以上のものが待っている。

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