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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第167話 最初の「いいえ」

 療養院の庭は、冬の光に満ちていた。空は高く澄み渡り、乾いた風が裸になった木々の枝を静かに揺らしている。セシリアは、中庭の一角にある薬草畑の前に屈み込み、凍った土を小さな移植ごてで丁寧に砕いていた。来年の春、ここに植えるカモミールのための土壌作りだった。冷たい土の感触と、枯れたハーブのかすかな香りが、彼女の心を穏やかに満たしていた。

 ここは、静かな場所だった。誰も彼女に何かを強要せず、誰も彼女から何かを奪おうとはしない。薬師の師匠は厳しくも優しく、院長先生はいつも遠くから見守ってくれている。自分の手で土に触れ、自分の頭で薬草の名前を覚え、自分の足で師匠の元へ通う。その一つ一つの行為が、セシリアの中に、これまで知らなかった確かな自信を、少しずつ、しかし着実に、育てていた。

 だから、その声が聞こえた時、彼女は一瞬、それが現実の音だとは認識できなかった。

「セシリア! ああ、私の可愛いセシリア!」

 あまりにも場違いで、そして、あまりにも懐かしい、甘く響く声。セシリアの体は、音のした方を見るより先に、反射的に強張った。指先から力が抜け、移植ごてが乾いた土の上に、からん、と軽い音を立てて落ちる。

 ゆっくりと振り返った彼女の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。

 そこには、継母が立っていた。

 上等ではあるが、あちこちが擦り切れたシルクのドレス。必死に整えられたであろう髪には、長旅の疲れが隠せないほつれが見える。厚化粧の下の肌は色を失い、その瞳だけが、獲物を見つけた獣のように、ギラギラとした光を宿していた。

 継母は、セシリアの前に駆け寄ると、その場に崩れ落ちるように膝をついた。そして、冷たい土で汚れたセシリアの両手を、無理やり掴み上げた。その指の力は、驚くほど強かった。

「なんて可哀想に! こんな、寂しくて寒い場所に、たった一人で閉じ込められて!」

 継母は、堰を切ったように泣きじゃくり始めた。その瞳からは大粒の涙が次々と溢れ落ち、セシリアの手の甲を濡らしていく。セシリアの心臓は、氷の塊を飲み込んだように冷たくなり、激しく鼓動を打ち始めた。

 怖い。

 その感情が、彼女の全身を支配した。思考は麻痺し、体は金縛りにあったように動かない。目の前で泣き崩れるこの人は、母親だ。自分を産み、育ててくれた、唯一の母。その認識が、重い鎖のように彼女の手足を縛り付けていた。

「さあ、お母様と一緒に、お家に帰りましょう。こんな場所は、あなたにふさわしくないわ」

 継母は、セシリアの顔を覗き込むようにして、切々と囁き続けた。その言葉は、かつて実家の薄暗い部屋で、幾度となく聞かされたものと少しも変わっていなかった。相手の罪悪感を巧みに煽り、思考を奪い、自分への依存心を植え付ける、甘く、そして粘つくような毒の言葉。

「あの子……レティシアは、冷たい女よ。自分の幸せのためなら、実の妹さえも見捨てるような人間なの。あなたを、本当に、心の底から愛しているのは、このお母様だけなのよ!」



 その言葉を聞いた瞬間、セシリアの中で、何かが、音を立てて変わった。

 レティシアは、冷たい女。

 その通りかもしれない、とセシリアは思った。姉は、泣いて助けを求める妹の面会の願いを、きっぱりと断った。その手紙を読んだ時、セシリアは確かに絶望し、世界から見捨てられたような孤独に打ちのめされた。

 だが、今は違う。

 あの拒絶は、突き放すためのものではなかった。セシリアが、自分の力で立ち上がることを、誰よりも信じて待っているという、姉からの厳しくも温かいメッセージだったのだと、今は、はっきりと理解できる。院長先生も、薬師の師匠も、同じことを言ってくれた。

 本当に、冷たいのは。

 セシリアの視線が、目の前で泣きじゃくる女の顔を、冷静に捉え始めた。恐怖で麻痺していた思考が、ゆっくりと動き出す。

 この人は、本当に私のことを心配しているのだろうか。

 違う。

 この人は、私のことなど見ていない。この人が見ているのは、全てを失い、惨めな生活を送っている自分自身だけだ。そして、その状況から抜け出すための、最後の道具として、娘である私を利用しようとしている。私が持つ、アレスティード公爵家との、か細い繋がりを。

 愛している。その言葉の裏側で、セシリアは、かつて姉から魔力を吸い上げていた時と同じ、粘つくような支配の匂いを、はっきりと嗅ぎ取っていた。この人は、私を愛しているのではない。私に、愛されることを、そして、私に依存されることを、求めているだけだ。

 その冷たい事実が、恐怖よりもずっと強く、彼女の心を支配した。

 金縛りが、ゆっくりと解けていく。指先に、冷たい土の感触が戻ってきた。頬を撫でる冬の風の冷たさを感じる。遠くで、療養院の鐘が鳴る音が聞こえる。

 私は、今、ここにいる。実家の薄暗い部屋ではない。この、光と、静けさに満ちた、北の地の庭に、自分の足で、立っている。

 目の前にいるこの人は、もはや「母」ではない。私を過去に引き戻そうとする、ただの亡霊だ。



 セシリアは、ゆっくりと、自分の両手を掴んでいた継母の指を、一本ずつ、引き剥がし始めた。

 その、予期せぬ抵抗に、継母の泣き声が、一瞬だけ、途切れた。彼女は、信じられないといった表情で、娘の顔を見上げた。

 そして、セシリアは、掴まれていた自分の手を、静かに、振り払った。

 それは、ごく小さな動作だった。しかし、彼女が、生まれてから十七年間、一度としてできなかった、最初の反抗だった。

「……いいえ、お母様」

 セシリアの唇から、か細い、しかし、凛とした声が、紡ぎ出された。その声は、まだ、わずかに震えていた。だが、そこには、確かな拒絶の意志が、込められていた。

「わたくしは、帰りません」

 その、はっきりとした言葉に、継母の顔から、悲劇のヒロインの仮面が、剥がれ落ちた。その下に現れたのは、驚愕と、屈辱と、そして、裏切られたという怒りが入り混じった、醜い素顔だった。

「……なにを、言っているの、セシリア。お母様の言うことが、聞けないとでも言うの?」

 声色から、甘い響きは消え、かつて私を支配した、ヒステリックな棘が、姿を現す。

 だが、その棘は、もはやセシリアの心には届かなかった。彼女は、一歩、後ろへ下がると、母親の目を、まっすぐに見つめ返した。その瞳には、もう、怯えの色はなかった。

「わたくしの居場所は、ここです」

 セシリアは、自分の足元の、薬草が植えられた土を、確かめるように見下ろした。

「わたくしは、ここで、自分の力で、生きていきます」

 その言葉は、自分自身に言い聞かせるための、誓いの言葉でもあった。騒ぎを聞きつけた療養院の職員が、建物の陰から、心配そうにこちらを窺っているのが、視界の端に見えた。だが、彼らが駆け寄ってくる前に、この決着は、自分でつけなければならない。

 セシリアは、再び、継母に視線を戻した。そして、最後の、そして、最も大切な言葉を、静かに、告げた。

「もう、誰かの、言いなりには、なりません」



 その言葉は、決定的な宣告となって、冬の澄んだ空気に響き渡った。

 継母は、完全に言葉を失い、ただ、呆然と、その場に座り込んでいた。自分が知っている、か弱くて、言いなりだった娘は、もう、どこにもいなかった。目の前に立っているのは、自分の知らない、意志を持った、一人の人間だった。

 セシリアは、そんな母親に、もう一度だけ、静かに視線を向けた。そして、ゆっくりと背を向けると、足元に落ちていた移植ごてを、拾い上げた。その、冷たい金属の重みが、彼女に、現実を、そして、これから始まる自分の日常を、はっきりと感じさせた。

 彼女は、もう、振り返らなかった。

 継母の呆然とした視線を背に受けながら、彼女は、作りかけだった薬草畑へと、一歩、また一歩と、確かな足取りで、歩いていった。その瞳には、もう涙はなかった。そこには、ただ、冬の空のように、どこまでも澄んだ、静かな光だけが宿っていた。

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