第164話 震える文字の謝罪
私がセシリアとの面会を断ってから、北の地は本格的な冬の気配に包まれ始めていた。朝の空気は刃物のように鋭く、窓ガラスにはうっすらと霜の模様が浮かぶ。私の決断に後悔はなかった。あれが、今の私たちにとって最善の選択だったと、今でも信じている。
それでも、公会の膨大な書類の山に没頭しているふとした瞬間に、妹のことが心の隅をよぎることがあった。私の言葉は、あの繊細な心を、必要以上に傷つけてしまったのではないか。立ち直るためのきっかけではなく、絶望の淵に突き落としてしまったのではないか。そんな不安が、冷たい隙間風のように胸を通り過ぎていく。
そのたびに、私は自分自身に何度も言い聞かせた。信じるのだと。彼女が、私の真意を理解し、自分の力で再び立ち上がってくれることを。
*
最初の知らせは、私の手紙が療養院に届いてから一週間ほど経った頃にもたらされた。院長先生からの、短い報告書だった。
「やはり、落ち込んでしまったか」
書斎でその手紙を読んでいた私の独り言に、向かいのソファで軍務報告書に目を通していたアレス様が、静かに顔を上げた。
「何か、問題が?」
「……セシリアが、私の返事を受け取ってから、ひどく落ち込んでいると。数日間、自室に閉じこもってしまっているそうです」
その文面は、私の胸に小さな棘のように突き刺さった。予想していたとはいえ、現実に突きつけられると、ずしりと重い。
アレス様は、手元の書類を置くと、まっすぐに私を見つめた。その灰色の瞳は、私の心の奥まで見透かしているようだった。
「お前は、後悔しているのか」
「いいえ」
私は、即座に首を振った。
「後悔はしていません。ですが、少しだけ……心が痛みます」
「そうか」
彼は、それ以上は何も尋ねなかった。ただ、静かに頷くと、再び書類に視線を落とした。その短いやり取りが、私には何よりの救いだった。彼は、私の判断を疑いも、否定もしない。ただ、その結果として私が感じる痛みを、静かに受け止めてくれる。その、言葉にならない信頼が、私の覚悟を、より一層、固くしてくれた。
院長の手紙は、こう結ばれていた。
『ですが、ご心配には及びません。薬師の師匠とも協力し、私たちも辛抱強く、彼女に寄り添うつもりです。レティシア様が、彼女を突き放したのではなく、その未来を誰よりも信じて、待っておられるのだということを』
私は、その温かい言葉を、胸の中で、何度も繰り返した。今は、ただ、待つしかない。
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それから、さらに数週間が過ぎた。療養院からは、週に一度、簡潔な報告が届くだけで、セシリアの心境に大きな変化は見られないようだった。焦りは禁物だ。私は自分の仕事に集中し、季節の移ろいに身を任せた。
そんなある日の午後、執務室で公会の新しい規約案を練っていると、侍女のフィーが、一通の封書を盆に載せて持ってきた。
「奥様、お手紙が届いております」
差出人の名前は、ない。しかし、その封筒に見覚えがあった。療養院で使われている、素朴な風合いの羊皮紙だ。また、院長先生からの報告だろうか。
そう思いながら、私は、何気なくその封書を裏返した。そして、その裏面に記された、たった一つの名前に、息を呑んだ。
震えるような、しかし、必死に形を整えようとした、懐かしい筆跡。
「セシリア」
私の心臓が、大きく、一度だけ跳ねた。
私は、フィーに目配せして下がらせると、一人になった執務室で、その手紙を、じっと見つめた。ペーパーナイフを手に取る指が、わずかに震える。どんな言葉が、この中に記されているのだろう。私への、恨み言だろうか。それとも、助けを求める、か細い声だろうか。
私は、意を決すると、慎重に、その封を切った。
*
中に入っていたのは、たった一枚の、短い手紙だった。
そこには、二つのことが、綴られていた。
一つは、今の穏やかな生活を与えてくれたことへの、心からの感謝の言葉。その、どこかぎこちない、しかし、丁寧な言葉選びに、彼女が何度も書き直したであろうことが窺えた。
そして、もう一つ。
私が、これまで、一度として、彼女の口から聞いたことのなかった言葉が、そこにはあった。
『お姉様。
わたくしは、これまでずっと、あなたの優しさに甘え、あなたから魔力を奪うことを、当然のことだと思っておりました。
あなたが、どれほど、我慢し、苦しんでいたか、考えようともしませんでした。
本当に、本当に、ごめんなさい』
その、最後の言葉は、インクが滲んだ跡で、少しだけ、歪んでいた。涙の跡だということは、すぐに分かった。
私は、その一文を、何度も、何度も、読み返した。
ごめんなさい。
その、たった一言が、私の胸の奥に、長年、氷のように凍りついていた、最後のわだかまりを、静かに、溶かしていくのが分かった。
許しを乞う言葉ではなかった。ただ、彼女が、自分の過去の過ちを、初めて、自分のこととして認識し、それに対して、謝罪している。その事実が、何よりも、重かった。
私は、手紙を、そっと、机の上に置いた。
窓の外では、いつの間にか、雪が降り始めていた。今年、初めての雪だった。白い綿のような雪が、静かに、音もなく、北の街を白く染めていく。
ふと、自分の頬に、何か、温かいものが伝うのを感じた。
指でそっと触れると、それは、一筋の涙だった。悲しみでも、怒りでもない。喜びと、安堵と、そして、過去から完全に解放されたという、静かな感動が、私の胸を満たしていた。
これで、ようやく、本当に、前に進める。
姉妹としてではなく、レティシアと、セシリアとして。それぞれの人生を、それぞれの足で。
私は、窓の外の初雪を、しばらく、ただ、黙って見つめていた。




