第163話 今は、その時ではない
私が送った薬膳スープのレシピは、セシリアの体調安定に確かな効果をもたらしたらしい。彼女は薬師の師匠からその調理法を教わると、自分の体調の僅かな変化を感じ取り、自分でハーブの配合を調整するまでになったという。療養院の院長から届く手紙には、日に日に自信を取り戻していく妹の様子が、温かい言葉で綴られていた。
薬草の名前を覚え、土に触れ、自分の手で何かを生み出す喜びを知る。それは、私が望んだ通りの、彼女の自立への確かな一歩だった。その順調な報告に、私は心からの安堵を覚えていた。だからこそ、その日の午後に届いた一通の手紙が、私の心にこれほどの波紋を広げることになるとは、予想もしていなかった。
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それは、院長先生の、いつもの丁寧な時候の挨拶から始まる、ごく個人的な書簡だった。しかし、その内容は、これまでのどの報告とも全く異なっていた。
『レティシア様。本日は、セシリア様ご本人からの、強いご希望があり、筆を執らせていただきました』
私は、その一文に、思わず背筋を伸ばした。
『セシリア様が、一度、奥様に直接お会いして、今のこの穏やかな暮らしを与えてくださったことへの感謝を、ご自身の口から、直接お伝えしたいと、強く希望されております。あの子が、誰かに、これほど強い意志を示したのは、療養院に来てから、初めてのことです』
手紙を持つ指が、微かに震えた。
会って、お礼を言いたい。その、あまりにも純粋で、切実な願い。手紙の文字の向こうに、少しだけ頬を赤らめ、懸命に言葉を探している妹の姿が、ありありと目に浮かんだ。
会いたい。
その言葉が、理性を飛び越えて、心の底から突き上げてきた。会って、その元気そうな顔を、この目で見たい。自分の足で立ち上がろうとしている彼女を、励ましてあげたい。その頭を、優しく撫でてやりたい。姉として、ごく当たり前の感情が、私の胸を激しく揺さぶった。
私は、椅子から立ち上がると、執務室の窓辺へと歩み寄った。窓の外には、冬の訪れを間近に控えた、北の街並みが広がっている。私は、冷たいガラスに額を押し当て、必死に、昂る感情を鎮めようとした。
ここで、会ってしまえば、どうなる?
私の脳裏に、実家の、あの薄暗い部屋の光景が蘇る。私の魔力にすがりつき、か細い声で「お姉様」と呼び続けた、か弱い妹の姿。そして、その甘えに、抗うことなく全てを与え続けた、かつての自分自身の姿。
今、ここで会えば、私はきっと、彼女を「守るべきか弱い妹」として見てしまうだろう。そして、セシリアの中にも、再び「頼るべき優しい姉」への甘えが、無意識のうちに生まれてしまうかもしれない。
それでは、だめなのだ。
私たちが今、必死に築き上げている、この新しい関係。彼女が、自分の力で、か細い腕で、ようやく積み上げ始めた自立という名の塔を、私自身の感情で、内側から崩してはならない。
私は、ガラスから額を離した。窓に映る自分の顔は、ひどく、強張っていた。
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私は、執務机に戻ると、新しい羊皮紙とペンを用意した。院長先生への返事を書くためだ。
ペン先をインク壺に浸しながら、私は、どのような言葉を選ぶべきか、深く、考えた。彼女の純粋な気持ちを、無下に傷つけたくはない。だが、同時に、きっぱりとした線引きをしなければならない。
やがて、私は、心を決めると、迷いのない筆致で、言葉を綴り始めた。
『院長先生。お手紙、拝見いたしました。セシリアさんの、そのお気持ち、大変有り難く、そして嬉しく、受け取ります』
まず、彼女の意志を、正面から受け止める。否定から入ってはならない。
『ですが、今は、まだ、その時ではありません』
そして、丁寧な、しかし、揺るぎない拒絶の言葉を、続けた。
『セシリアさんが、薬師としての道を、そして一人の人間としての道を、ご自身の足で、完全に立てるようになった、その時。私たちは、きっと、新しい関係で、再会できるでしょう。姉と妹としてではなく、レティシアと、セシリアとして』
私は、最後に、こう書き加えた。
『どうか、あの子にお伝えください。私は、あなたの未来を、誰よりも信じて、遠い場所から、いつも、応援しています、と』
それは、私の、偽らざる本心だった。彼女の未来を信じるからこその、愛ある拒絶。今の彼女なら、きっと、この真意を理解してくれるはずだ。
私は、手紙を書き終えると、それを丁寧に折り畳み、封蝋で封をした。そして、呼び鈴を鳴らしてブランドンを呼び、その手紙を、療養院へ届けるよう、静かに命じた。
ブランドンが退出した後、執務室には、再び静寂が戻ってきた。私は、椅子に深く身を沈め、目を閉じた。これで、良かったのだ。今は、これで、いい。
いつか、本当に、彼女が自立したその日に、胸を張って再会できることを、私は、心から、信じていた。




