第162話 名前のないレシピ
セシリアが薬師の元で学び始めてから、療養院の院長から定期的に届く手紙には、彼女の前向きな変化が喜ばしげな筆致で綴られている。初めは戸惑っていた薬草の名前を今では十種類以上も暗唱できるようになったこと。師である薬師の問いかけに、自分の言葉で答えようと努力していること。その一つ一つの報告が、私の胸を温かいもので満たした。
しかし、その日の午後に届いた手紙には、新たな相談事が記されていた。
「セシリア様の自立への意欲は、誠に目覚ましいものがございます。ですが、季節の変わり目や、些細な不安から、今も時折、魔力に微弱な揺らぎが見られることがございます。幸い、すぐに安定を取り戻しますが、いつか彼女がここを巣立つ日のことを考えますと、何か、彼女自身が自分の力で体調を管理できるような、具体的な方法があればと……」
私は、その手紙を机の上に置くと、深く椅子に身を沈めた。院長の懸念はもっともだ。私がこの地にいる限り、いざとなれば私の「温導質」で彼女を助けることはできる。だが、それでは何の意味もない。それは、かつて実家で行われていた搾取の関係を、善意の衣で包み直したに過ぎない。
彼女に必要なのは、私が不在でも、彼女自身の力で実践できる、確かな「知識」と「技術」なのだ。
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その夜、私は一人、書斎に籠もっていた。
机の上には、真っさらな羊皮紙と、インク壺、そして数種類の専門書が広げられている。私がこれまで療養院の厨房にだけ、こっそりと口頭で伝えてきた「魔力安定スープ」。その全てを、誰が読んでも正確に再現できるよう、体系的に文書化しようと決めたのだ。
それは、私の知識と経験の集大成ともいえる作業だった。
まず、ベースとなる鶏の出汁の取り方から書き始める。次に、主役となるハーブ。心を落ち着かせるカモミール、血の巡りを良くするローズマリー、そして魔力の循環を穏やかに整えるという、この地方特有の希少な月見草。それぞれの効能と、なぜその組み合わせが有効なのかという理論的背景を、簡潔な言葉で記していく。
最も神経を使ったのは、分量の部分だった。多すぎれば薬効が強すぎて体に負担をかけ、少なすぎれば効果がない。私は、前世の化学実験の記憶を呼び起こしながら、天秤を使って乾燥ハーブを正確に計量し、その最適な分量を何度も書き直した。
「月見草の葉、乾燥状態で三グラム。カモミールの花、五グラム。ローズマリーの若葉、一グラム。これらを麻の袋に入れ、弱火で煮出した鶏の出汁に、二十五分間浸すこと」
時間も重要だ。煮込みすぎればハーブの繊細な香りは飛び、有効成分も壊れてしまう。私は懐中時計を片手に、最適な時間を割り出していく。
さらに、体調の変化に応じたアレンジ方法も書き加えた。不安が強い夜には、安眠を促すバレリアンの根を少量加えること。体の冷えを感じる朝には、血行を促進する生姜を一片加えること。その一つ一つが、セシリアが自分の体と対話し、自分自身で処方箋を組み立てるための、具体的な武器となるはずだった。
窓の外が白み始める頃、羊皮紙は数枚にわたって、私の知識で埋め尽くされていた。それは、単なる調理法ではない。魔力医学と薬草学、そして料理という技術が融合した、一つの小さな論文と呼んでもいいものだった。
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完成した完璧なレシピを前に、私は最後の、そして最も重要な仕上げに取り掛かった。
それは、この知識の集合体から、私の名前と存在を、完全に消し去るという作業だった。
もし私がこれを「姉があなたのために作った、特別なレシピよ」と言って渡せば、どうなるだろうか。セシリアはきっと喜び、そして感謝するだろう。だが同時に、彼女の心には、再び「姉への依存」という名の、甘い毒が根を張るに違いない。体調が揺らぐたびに、彼女は自分の力で解決しようとするのではなく、私の顔を思い浮かべ、私の与えた知識にただ縋ることになる。それでは、本当の意味での自立とは言えない。
彼女が学ぶべきは、姉からの個人的な施しではない。誰のものでもない、客観的で、公的な「知識」そのものであるべきなのだ。
私は、ペンを手に取ると、レシピの冒頭に、表題を書き加えた。
『この地方に古くより伝わる、心身を健やかに保つための薬膳スープに関する伝承』
これでいい。これで、このレシピは、私個人の手から離れ、誰もが学び、活用できる公共の財産となる。セシリアは、姉から与えられるのではなく、療養院の院長や、薬師の師匠という、信頼できる専門家から、公的な「知識」として、これを学ぶことになるだろう。
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私は、完成したレシピの写しを、丁寧に二通作成した。そして、それぞれに、短い手紙を添えた。一通は療養院の院長へ、もう一通は、セシリアの師である薬師へ。
文面は、どちらもほぼ同じだ。
『先日ご相談いただいた件について、解決の一助となる可能性のある古い文献を見つけましたので、その写しをお送りいたします。これは私が考案したものではなく、古くからこの地方に伝わる価値ある民間療法です。どうかこの知識を、セシリアさんが自分自身の力で健康を管理するための、一つの道具として、お授けください』
私は、その二通の手紙とレシピを、それぞれ別の封筒に入れ、公爵家の紋章が入っていない、無地の封蝋で、丁寧に封をした。
呼び鈴を鳴らしてブランドンを呼ぶと、私は、その二つの封筒を彼に手渡した。
「これを、それぞれ、療養院と、街の薬師ギルド長の元へ、急ぎで届けてください。差出人は、私の個人名ではなく、アレスティード公爵家の家政室として」
「……かしこまりました」
ブランドンは、私の意図を察したのか、何も問うことなく、ただ静かに一礼して、封筒を受け取った。その姿が扉の向こうに消えた後、私は一人、執務室に残された。
机の上には、もう何も残っていない。私の手から離れた知識が、これからセシリアの元へと届き、彼女自身の力で、その意味を解き明かし、実践していくのだろう。
私は、椅子から立ち上がると、窓辺に歩み寄った。東の空が、夜の闇を押し退け、新しい一日の始まりを告げていた。




