第160話 「席はない」という宣告
父の逆恨みに満ちた叫びが、雨音を突き抜けて、応接室の窓ガラスを震わせた。
「分かっているぞ! お前は、まだ、私たちを恨んでいるのだろう! だから、こんな、惨めな真似をさせて、楽しんでいるんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で、張り詰めていた最後の細い糸が、音もなく、ぷつりと切れた。恨んでいる? 楽しんでいる? 違う。全く違う。私の胸にあるのは、そんな熱のある感情ではない。ただ、どこまでも冷たい、無関心だけだ。
彼は、最後の最後まで、理解しようともしないのだ。私が、もはや彼の知る、あの「いい子」ではないという、単純な事実を。
「奥様、いかが、いたしましょうか」
ブランドンが、私の最終的な判断を促すように、静かに問いかけた。
私は、カップをソーサーの上に置くと、静かに立ち上がった。そして、何も言わずに窓辺へと歩み寄り、冷たいガラス窓の向こうを見下ろした。ここからでは、門前の様子は直接見えない。だが、雨に濡れた石畳と、そこに膝をついているであろう、一人の男の惨めな姿は、はっきりと想像できた。
隣には、いつの間にかアレス様が立っていた。彼は、私と同じように窓の外を見つめている。
「どうする」
彼の低い声が、再び私の決断を問うた。
私は、窓の外から視線を外さないまま、答えた。
「いいえ、お会いしません」
その声は、自分でも驚くほど、静かで、平坦だった。
「そして、もう、二度と、会うつもりもありません」
私は、アレス様に向き直った。彼の灰色の瞳には、私の決意が、はっきりと映っている。彼は、何も言わずに、ただ、静かに頷いた。それで、十分だった。
私は、部屋の中央で待機していたブランドンに、視線を向けた。
「ブランドン」
「はっ」
「私の言葉を、そのまま、あの方に、伝えていただけますか」
「かしこまりました。いかようにも」
彼の、揺るぎない忠誠心が、そこにはあった。私は、一瞬だけ、息を吸い込んだ。そして、私の過去に、最後通告を突きつけるための言葉を、紡ぎ出した。
「ラトクリフ伯爵家と、私の間に、もはや、座るべき席は、ございません、と」
*
ブランドンは、私の言葉を、一言一句、違えることなく、静かに復唱した。そして、深々と一礼すると、音もなく応接室を退出していった。
残された部屋には、暖炉の薪が爆ぜる音と、窓を打つ雨音だけが響いていた。
私は、再び、窓辺に戻った。アレス様も、私の隣で、その成り行きを、静かに見守っている。
やがて、屋敷の正面玄関が開き、傘を差したブランドンの姿が、雨の中に現れた。彼は、濡れた石畳の上を、少しも歩調を乱すことなく、まっすぐに、門へと向かっていく。
門前では、衛兵たちが、土下座を続ける父を、なすすべもなく、遠巻きにしていた。ブランドンは、その男の前に立つと、恭しく、しかし、一切の感情を排した動きで、傘を少しだけ傾け、自分の顔が相手から見えるようにした。
何を話しているのか、ここからでは聞こえない。だが、ブランドンが、私の言葉を、冷徹なまでに正確な口調で、伝えているであろうことは、疑いようもなかった。
*
その瞬間、全てが止まったように見えた。
それまで、途切れ途切れに聞こえてきていた父の泣き声が、ぴたりと、止んだ。彼は、信じられないといった表情で、ゆっくりと、顔を上げた。その、泥と雨にまみれた顔が、ほんの一瞬だけ、こちらを向いたような気がした。
その瞳に浮かんでいたのは、絶望、そのものだった。彼が、最後まで信じていた、最後の甘い幻想。娘の情けという名の蜘蛛の糸が、完全に断ち切られたことを、彼は、その瞬間に、悟ったのだ。
やがて、彼は、まるで、糸が切れた操り人形のように、その場に、くずおれた。もはや、叫ぶ気力も、泣きわめく力も、残ってはいないのだろう。ただ、雨に打たれるまま、動かなくなった。
ブランドンは、その姿に一礼すると、静かに背を向け、屋敷へと戻っていく。彼の仕事は、終わったのだ。




