表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/124

第15話 パンの耳と家令の完敗

 古参料理人のゲルトさんが協力的になってから、厨房の空気は驚くほど一体感を増した。彼が長年の経験から繰り出す的確な助言と、私が持ち込んだ新しい調理法が組み合わさり、料理の質は日に日に向上している。侍女長のフィーは「まるで毎日がお祭りのようです!」と目を輝かせ、若い料理人たちは競うように新しいレシピのアイデアを出してくる。

 温かいスープは屋敷の隅々まで行き渡り、人々の頬に血色を取り戻させていた。順風満帆。そう言ってもいい状況だった。

 けれど、私の心には一つの小さな棘が、ずっと刺さったままだった。

 それは、毎日、調理の過程で出る大量の「廃棄物」の存在だ。

 貴族の食卓に上る料理は、見た目の美しさが重視される。そのため、野菜は形を揃えて切りそろえられ、その切れ端は捨てられる。パンは柔らかい中心部だけが使われ、こんがりと焼かれた耳の部分は、容赦なくゴミ箱へと放り込まれていた。

 その光景を見るたびに、私の胸はちりりと痛んだ。前世、切り詰めた生活の中で、スーパーの値引きシールが貼られたパンの耳を買い、どうにか美味しく食べられないかと工夫を重ねた日々が蘇る。そして、この世界の実家で、父と継母が見栄のためにどれだけのものを無駄にしてきたか、その記憶も。

 「もったいない」

 その一言が、私の中で燃え上がっていた。我慢はしないと決めた。それは、理不尽な扱いに耐えないというだけでなく、こういう小さな心の痛みを無視しない、ということでもあるのだ。

「フィー、皆さん。少し、新しい試みをしてもいいかしら」

 ある日の午後、私は厨房の皆を集めて宣言した。

「これから、捨てていたパンの耳と野菜の切れ端で、美味しいものを作ります」



 私の提案に、皆はきょとんとしていた。ゴミで作る料理、というのがピンとこないのだろう。

「奥様、ですが、そのようなものを一体誰が……」

 フィーがおずおずと尋ねる。

「まずは、私たちの賄いから。それと、夜警の兵士さんたちの夜食にもいいかもしれないわ」

 私はにっこりと笑い、早速行動に移した。

 その日集まったのは、大きな籠に山盛りのパンの耳と、不揃いな形をした人参やカブの切れ端。私はまず、パンの耳を牛乳と卵を混ぜた液体にたっぷりと浸した。塩と胡椒、そしてゲルトさんがこっそり教えてくれたナツメグをほんの少し加えるのがコツだ。

 野菜の切れ端は細かく刻み、少量の油でしんなりするまで炒める。甘い香りが厨房に立ち上り始めた。

 耐熱皿に、炒めた野菜と、ミルク卵液を吸ってふっくらと柔らかくなったパンの耳を交互に重ねていく。最後に、保存庫の隅で忘れられていたチーズの塊をたっぷりとおろし金ですりおろし、全体を覆うように振りかけた。

「わあ……なんだか、すごくいい匂いがしてきました」

 若い侍女が、うっとりとした声を上げる。

 準備ができた皿を、予熱しておいたオーブンに入れる。あとは待つだけだ。やがて、チーズが焦げる香ばしい匂いと、ミルクと卵の甘い香りが混じり合った、抗いがたい芳香が厨房を満たし始めた。

 焼き上がったそれは、表面はこんがりとキツネ色で、中はふんわりとろとろ。私はそれを「救済グラタン」と名付けた。

 その日の賄いの時間、使用人たちは恐る恐る、しかし興味津々でそのグラタンを口に運んだ。そして、次の瞬間、彼らの顔は驚きと喜びに輝いた。

「おいしい!」「これがパンの耳だなんて信じられない!」「温かくて、お腹にたまりますね!」

 その評判はあっという間に広まった。夜警の兵士たちからは「毎晩これがいい」とリクエストが殺到し、いつしか「救済グラタン」は、屋敷の裏方たちを支える人気メニューとなっていた。

 もちろん、この動きを快く思わない人物が、一人だけいた。



 数日後、噂を耳にした家令が、苦虫を噛み潰したような顔で厨房に乗り込んできた。ちょうど、私がその日の賄い用のグラタンをオーブンから取り出したところだった。

「奥方!一体これは何ですかな!」

 家令は、湯気の立つグラタンの皿を指さし、侮蔑を隠そうともせずに言った。

「本来であれば、家畜の餌にでもなるべきクズで、料理とは……。公爵家の品位を貶めるにも程がある!」

 彼の甲高い声が、静かだった厨房に響き渡る。他の料理人や侍女たちは、怯えたように身を縮こまらせた。

 私は冷静に彼に向き直った。

「家令。これは、この家で働く人々を支える、温かい食事です。品位とは、食べ物を無駄にすることではないはずですわ」

「口答えを!このようなみすぼらしい餌を許しておけば、いずれ屋敷の規律そのものが崩壊する!伝統と礼法を何と心得る!」

 家令がさらに声を荒らげた、その時だった。

「――その通りかもしれんな」

 静かだが、よく通る声が、入り口から聞こえた。執事長のブランドンが、いつの間にかそこに立っていた。

 家令は、味方が現れたとばかりに勢いづく。

「執事長!あなたからも、この無軌道な奥方に言ってやってください!このようなことは、断じて許されるべきでは……」

「家令」

 ブランドンは、家令の言葉を静かに遮った。そして、ゆっくりと懐から一枚の書類を取り出す。

「君の言う『みすぼらしい餌』が、この家に何をもたらしたか、君自身の目で確かめるといい」

 彼はその書類を、家令の目の前に突きつけた。それは、私が日々の業務の合間に作成し、彼に提出していた「厨房経費および廃棄食材に関する改善報告書」だった。

 そこには、食材の廃棄率が私の改革以降、七割以上も削減されたこと、そして、それによってどれだけの経費が浮いたかが、冷徹な数字で克明に記されていた。

 家令は、信じられないというように、書類の数字と目の前のグラタンを交互に見た。彼の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。

 ブランドンは、静かに続けた。

「君の言う『品位』と、奥方が示されたこの『実利』。どちらが、このアレスティード家により大きく貢献しているかは、明白だろう。違うかね?」

 ぐうの音も出ない、とはこのことだった。家令は、わなわなと唇を震わせ、何も言い返すことができない。彼の拠り所である「伝統」や「礼法」という曖昧な言葉は、数字という絶対的な事実の前では、あまりにも無力だった。

 厨房にいる誰もが、息を殺してその光景を見守っていた。それは、古い価値観が、新しい価値観に完膚なきまでに打ち負かされる瞬間だった。

 やがて、家令は屈辱に顔を歪め、私を睨みつけると、何も言わずに踵を返し、足早に厨房から去っていった。

 彼の背中が消えると、厨房には安堵と、そして静かな勝利の空気が満ちた。フィーが駆け寄ってきて、私の手を固く握る。

「やりましたね、奥様!」

 私は彼女に微笑み返しながら、熱いグラタンの皿を見つめた。捨てられるはずだったものたちが、今、こうして人々の体を温め、家計を助けている。

 私のやり方は、間違っていない。

 家令の去り際の瞳の奥に、単なる屈辱だけではない、もっと暗く冷たい光が宿っていたことに、その時の私はまだ気づいていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ