第155話 妹の穏やかな時間
実家が法的な手続きによって解体されていくという知らせが、王都から定期的に届く一方で、私の元にはもう一つの、全く性質の異なる報告書が届けられていた。
差出人は、アレスティード領の南端に近い、森に囲まれた丘の上にある療養院の院長からだった。そこは、私の異母妹であるセシリアが、身を寄せている場所だ。
ラトクリフ伯爵家の騒動とは対照的に、その羊皮紙に記されているのは、いつも穏やかで、希望に満ちた言葉ばかりだった。
『セシリア様の容態は、引き続き安定しております。先月は一度も魔力の発作を起こされることなく、夜も朝まで眠られる日が増えました』
『厨房で出していただく食事は、毎日ほとんど完食されております。特に、奥様からご教示いただいたハーブのスープは、大変お気に召しているご様子です』
『最近では、療養院の庭で、他の療養者の方と、花の手入れをされるようになりました。土に触れている時の彼女は、とても穏やかな表情をしておられます』
その、短い報告を読むたび、私の胸には、複雑で、しかし、確かな感情が広がった。それは、単なる安堵や、姉としての喜びとは、少し違う。自分が立てた仮説が、一つの実例によって、完璧に証明されていくのを目の当たりにする、科学者のような、冷徹な満足感に近かった。
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その報告書が届いた数日後の午後、私はお忍びでその療養院を訪れていた。公務の視察という名目でアレス様の許可を取り、侍女のフィーだけを連れて、簡素な馬車で向かったのだ。
療養院は、私が選んだ通り、静かで、日当たりの良い場所だった。白い壁の建物は清潔に保たれ、窓からは、楽しげな話し声や、穏やかな音楽が微かに漏れ聞こえてくる。王都の、あの息の詰まるような屋敷とは、何もかもが対照的だった。
私を出迎えてくれたのは、院長である初老の医師だった。彼は、私の身分に臆することなく、温和な笑みで、深く一礼した。
「公爵夫人様、ようこそおいでくださいました。お待ちしておりました」
「こちらこそ、いつもセシリアがお世話になっております。詳しい様子を聞かせていただけますか」
私たちは、院長の執務室で、向かい合って座った。窓の外には、手入れの行き届いた、広い庭が見える。
「ええ、それはもう。最初にお越しになった頃とは、まるで別人のようです」
院長は、穏やかな口調で語り始めた。
「当初は、誰に対しても怯え、部屋の隅で膝を抱えているばかりでした。食事もほとんど喉を通らず、夜中に、魔力の発作を起こしては、叫び声を上げて……。正直なところ、我々の手で、どこまでお助けできるか、自信がありませんでした」
彼は、そこで一度言葉を切り、私に、感謝の視線を向けた。
「ですが、奥様がおっしゃった通りでした。栄養バランスの取れた、温かい食事を、時間をかけて、根気よく続けていくうちに、セシリア様は、少しずつ、本当に少しずつですが、変わっていかれたのです」
特に効果があったのは、私が彼にだけ、こっそりとレシピを渡しておいた、あの特別なスープだったという。古くからこの地方に伝わる、魔力の循環を穏やかにする効能を持つ、数種類のハーブを煮込んだ、滋味深いスープ。実家では、誰もその価値を知らず、ただの雑草として扱われていたものだ。
「あのスープを飲み始めてから、発作の回数は、劇的に減りました。体が落ち着くと、心も、自然と、落ち着いてくる。人間とは、実に、そういう風にできているのですね。改めて、教えられました」
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院長は、窓の外に目を向け、庭の一角を指さした。
「ご覧ください、奥様。あそこに、セシリア様がいらっしゃいます」
彼の指さす先、色とりどりの秋の花が咲き誇る花壇のそばで、数人の療養者たちが、談笑しながら、庭仕事に勤しんでいた。その中に、私の異母妹の姿があった。
私は、息を呑んだ。
彼女は、簡素な木綿のワンピースを着て、麦わら帽子をかぶり、小さなシャベルを手に、雑草を抜いていた。その横顔は、私が知っているセシリアとは、全くの別人に見えた。
常に青白く、血の気がなかった頬には、健康的な血色が戻っている。ヒステリックに吊り上がりがちだった目元は、穏やかに和らぎ、何かに集中している時の、少女らしい真剣な光を宿していた。かつて、私の魔力を吸い尽くさなければ、その身を保つことさえできなかった、痩せ細った体も、少しだけ、ふっくらとしているように見える。
彼女は、隣にいた年配の女性に、何かを話しかけ、そして、小さく笑った。その、ごく自然で、穏やかな笑顔を、私は、生まれて初めて見たかもしれなかった。
実家では、彼女は常に「魔力が不安定な、か弱い妹」という役割を演じさせられていた。そして、その役割を維持するために、私の存在を、私の魔力を、必要とした。彼女自身が、そう望んだのか、あるいは、父や継母が、そう仕向けたのか。今となっては、どちらでもいい。
だが、ここでは違う。
ここでは、誰も、彼女に、何も強要しない。誰も、彼女から、何かを搾取しようとはしない。彼女は、ただの一人の少女として、他の人々と同じように、温かい食事を食べ、穏やかな日差しを浴び、土に触れる。
それだけのことで、人は、これほどまでに、変わることができるのだ。
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「直接、お会いになりますか?」
院長が、遠慮がちに尋ねてきた。
私は、静かに首を振った。
「いいえ、結構です。私の顔を見れば、あの子は、また、昔の関係性を、思い出してしまうかもしれません」
私は、今、彼女の前に現れるべきではない。彼女は、私の助けによってではなく、彼女自身の力で、この穏やかな環境の中で、立ち直るべきなのだ。情けや、同情は、時として、人の自立を妨げる、甘い毒になる。
「そうですか。……賢明な、ご判断かと存じます」
院長は、私の意図を察してくれたようだった。
「奥様、一つだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「なぜ、あれほど、確信を持っておられたのですか。セシリア様が、この環境と、食事で、必ず回復されると」
彼の問いに、私は、窓の外のセシリアの姿から、目を離さないまま、答えた。
「人も、食材も、同じだからです」
「……と、申しますと?」
「どんなに上質な食材も、劣悪な環境に置かれれば、その味を損ない、やがては腐敗します。ですが、適切な温度で、丁寧に扱えば、本来持っている、最高の味を引き出すことができる。人間も、きっと、それと同じなのだと、私は、そう信じておりましたので」
*
療養院を後にする馬車の中で、私は、ずっと、窓の外を流れる景色を眺めていた。
王都で崩壊していく実家と、北の地で再生していく妹。その二つの光景が、私の頭の中で、鮮やかな対比となって、重なり合っていた。
彼らの運命を分けたものは、一体、何だったのだろう。
血の繋がりか、愛情か、それとも、個人の才能か。
違う。
答えは、もっと、単純で、そして、冷徹なものだ。
人を救うのも、人を壊すのも、その人が置かれる「環境」と、その環境を支配する「仕組み」なのだ。
搾取されるだけの環境にいれば、人は、心を病み、その命をすり減らしていく。だが、守られ、与えられる環境にいれば、人は、自らの力で、立ち直ることができる。
私は、その、あまりにも明白な事実を、改めて、確信していた。そして、私のやるべきことは、ただ一つ。この北の地に、一人でも多くの人間が、健やかに生きていけるための、温かい「環境」と、正しい「仕組み」を、作り上げていくこと。




