第154話 差し押さえの赤い封蝋
アレスティード公爵家の名で、ラトクリフ伯爵家に対する損害賠償請求訴訟が起こされたという知らせは、王都の貴族社会を静かに駆け巡った。しかし、北の地にある私の日常は、その喧騒とは無関係に、穏やかに過ぎていった。
私は、その件に関する詳細な報告を求めなかった。公会の運営、新しいレシピの開発、そして加盟店の経営指導。私の時間は、未来を作るための仕事で埋め尽くされており、過去を振り返る暇などなかった。
時折、執事長のブランドンが、法務チームからの進捗報告として、簡潔な事実だけを私に伝えてくる。私は、それを、まるで遠い国の出来事を聞くかのように、ただ静かに受け止めていた。
*
訴訟が始まってから、およそ一月が過ぎた日の午後だった。
公会本部の私の執務室で、新しい講習会のための資料に目を通していると、ブランドンが音もなく入室してきた。
「奥様、王都の裁判所より、判決が出ましたのでご報告いたします」
「ええ、聞かせてもらえるかしら」
私は、ペンを置くと、彼に向き直った。
ブランドンは、手にした一枚の羊皮紙に目を落とし、感情を一切排した事務的な口調で読み上げた。
「被告、ラトクリフ伯爵は、法廷において『自分は何も知らない』『雇った男たちが勝手に行ったことだ』と主張を繰り返したとのことです。しかし、事前に確保した男たちの詳細な供述調書、及び、金の受け渡しを証明する物証の前には、それらの主張は全て退けられました」
「そう」
私は、短く相槌を打った。父が、法廷でいかに無様に往生際悪く振る舞ったか、その光景が目に浮かぶようだった。
「裁判所は、ラトクリフ伯爵に対し、今回の業務妨害によって生じた温食公会加盟店の逸失利益、及び、公会の信用を毀損したことに対する慰謝料として、金貨五千枚の支払いを命じる判決を下しました。支払い期限は、本日から一ヶ月後です」
金貨五千枚。それは、伯爵家一つが、余裕を持って一年間暮らしていけるほどの、莫大な金額だった。今の実家に、そんな大金を用意できるはずがない。
「ですが」と、ブランドンは言葉を続けた。
「法務チームの見解では、現在のラトクリフ伯爵家の財政状況を鑑みるに、賠償金の支払いは、まず不可能であろう、とのことです」
「そうでしょうね」
私は、静かに答えた。父たちが、自分の見栄と体面のために、どれほど浪費を重ねてきたか、私が一番よく知っている。
「支払いが行われなかった場合、法的な手続きはどうなるの?」
「その場合は、裁判所の命令に基づき、伯爵家の資産を差し押さえ、強制的に賠償金に充当することになります」
「分かったわ。報告をありがとう」
私の、あまりにも冷静な反応に、ブランドンはわずかに眉を動かしたが、何も言わずに深く一礼すると、静かに部屋を退出していった。
私は、再び、手元の資料に目を落とした。判決が出た。ただ、それだけのことだ。私の心が、揺れることはなかった。
*
支払い期限と定められた日から、三日が過ぎた。
その日の夕方、再びブランドンが私の執務室を訪れた。その表情は、いつもと変わらず、無表情だった。
「奥様、ご報告いたします。本日、裁判所の執行官が、ラトクリフ伯爵家の資産差し押さえを、完了いたしました」
私は、顔を上げ、彼の次の言葉を待った。
「予想通り、賠償金の支払いは一切行われなかったため、本日正午、執行官が数名の補佐を伴い、王都の伯爵邸を訪れたとのことです」
ブランドンは、まるで天気の話でもするかのように、淡々と、その光景を語り始めた。
「執行官は、屋敷の所有権の一部、及び、換金可能と判断された全ての家財道具に対し、差し押さえを意味する赤い封蝋を貼付。継母君が、特に大切にされていたという南大陸産の飾り棚や、客間に飾られていた肖像画、そして、銀の食器類に至るまで、そのほとんどが対象となった模様です」
その光景を想像する。継母が、客人が来るたびに自慢していた、あの彫刻の施された飾り棚。父が、自分の権威の象徴であるかのように、壁にかけていた、先祖代々の肖像画。それら、彼らの虚栄心を支えていた全てのものが、今、冷たい法の手続きによって、その価値を値踏みされ、赤い印をつけられていく。
「ラトクリフ伯爵と継母君は、その様子を、ただ、ホールで見ていただけだったと」
「ええ。報告によれば、お二人とも、顔面蒼白で、一言も発することなく、ただ、執行官たちの作業が終わるのを、立ち尽くして見ているだけだった、とのことです」
何の抵抗も、嘆願も、罵声もなかった。おそらくは、あまりにも現実味のない光景に、声を出すことさえ、できなかったのだろう。
私は、その報告を聞き終えても、何も感じなかった。胸がすくような思いも、憐れむ気持ちも、そこにはなかった。ただ、本来あるべきではなかったものが、その場から取り除かれ、全てが正しい場所へと収まっていくような、静かで、冷徹な納得感があるだけだった。
「ご報告は、以上です」
「ご苦労様でした、ブランドン」
彼が部屋を出て行くと、執務室には、再び、静寂が戻った。
私は、窓の外に広がる、北の街の灯りを見つめた。私の居場所は、もう、ずっと前から、ここなのだ。
私は、手元に残っていた最後の書類に、ペンで署名を書き入れた。




