第152話 金で雇われた怒号
私の予感は、残念ながら的中した。しかも、想像していたよりも、ずっと早く、ずっと卑劣な形で。
その引き金を引いたのは、王都の社交界で公然と恥をかかされた、私の継母だった。
ラトクリフ伯爵家の屋敷に泣きながら帰ってきた彼女は、出迎えた父に、サロンでの一部始終をヒステリックにぶちまけた。割れるような甲高い声が、差し押さえの赤い封蝋が貼られた、がらんとしたホールに響き渡る。
「あなたのせいよ! あなたがあの娘を、昔から甘やかしてきたせいで、わたくしがこんな惨めな目に!」
「うるさい!黙れ!」
父の怒声が、彼女の罵声を遮った。しかし、その声には、かつてのような威厳は微塵もなかった。ただ、追い詰められた獣のような、焦りと苛立ちが滲んでいるだけだ。
テーブルの上には、返済を催促する手紙の束が、無造作に積み上げられている。家の財産は底を突き、最後の頼みの綱だった社交界での信用も、完全に失墜した。もはや、彼らに残された道は、ほとんどなかった。
「……もう、なりふり構ってなどいられるか」
父は、誰に言うでもなく、そう呟いた。その目は血走り、虚ろな光を宿していた。彼は、残されたなけなしの金貨を、震える手で掴むと、誰の制止も聞かず、夜の王都の闇へと、姿を消した。
*
ラトクリフ伯爵が向かったのは、貴族たちが決して足を踏み入れない、王都の裏通りだった。泥と汚水にまみれた石畳、鼻をつく安酒の匂い、そして、建物の陰で交わされる、うさんくさい密談。
彼は、一軒の薄汚れた酒場の扉を、ためらいがちに押し開けた。
中の空気は、煙草の煙と、汗の匂いで淀んでいる。彼は、カウンターの隅で、いかにも柄の悪そうな男たちが、汚い言葉で罵り合いながら、賭け事をしているのを見つけると、意を決して、そのテーブルへと近づいた。
「……少し、頼みたいことがある」
伯爵の、場違いな、上ずった声に、男たちの一人が、顔を上げた。その顔には、深い傷跡があり、人を人とも思わないような、冷たい目が光っている。
「あん? なんだい、旦那。ここは、あんたみたいな、お綺麗な方が来るところじゃねえぜ」
「金なら、ある」
父は、懐から、小さな革袋を取り出し、テーブルの上に置いた。硬貨がぶつかり合う、鈍い音が響く。
男たちの目が、一斉に、その革袋に注がれた。
「……話を聞こうじゃねえか」
傷跡の男が、にやりと、汚れた歯を見せて笑った。
父は、声を潜め、計画を語り始めた。北の地へ行き、いくつかの食堂や宿屋で、騒ぎを起こしてほしい、と。
「報酬は、これだけだ。成功すれば、後から、さらに支払う」
「騒ぐ、ねえ。具体的には、どうしろってんだ?」
「何でもいい。『ここの料理を食ったら、腹を壊した』とでも、『こんな不衛生な店で、食えるか』とでも、大声で怒鳴り散らせ。他の客を脅し、とにかく、店の評判を、地に落としてくれれば、それでいい」
その、あまりにも卑劣な依頼内容に、しかし、男たちは、顔色一つ変えなかった。彼らにとって、それは、ただの「仕事」でしかなかった。
「なるほどね。分かった。その仕事、引き受けた」
傷跡の男は、革袋をひったくると、その中身を確かめもせず、懐にしまった。
父は、その男たちに背を向けると、逃げるように、酒場を後にした。かつて、誇りと体面を何よりも重んじていたはずの自分が、今や、金で、人の人生を壊すための、汚れた仕事を依頼している。その、どうしようもない自己嫌悪が、彼の背中を、さらに小さく、丸めていた。
*
その、数日後のことだった。
北の街は、穏やかな昼下がりの光に包まれていた。公会に加盟した店々は、どこも、昼食を求める客で賑わい、活気に満ちている。レオが働く「木漏れ日亭」の前には、今日も、彼のミートパイを求める人々の、楽しげな行列ができていた。
その、平和な日常を、突然、引き裂いたのは、店の扉を蹴破るような勢いで入ってきた、数人の男たちの、怒号だった。
「おい! ここの店主はどこだ!」
入ってきたのは、見るからに人相の悪い、三人組の男たちだった。そのうちの一人は、顔に、深い傷跡がある。
突然の出来事に、食堂の空気は、一瞬で凍りついた。
厨房から、驚いた女主人が、エプロンで手を拭きながら出てくる。
「はいはい、お客様。一体、どうなさいました?」
「どうした、だと!?」
傷跡の男は、テーブルの一つを、拳で、力任せに叩きつけた。食器が、けたたましい音を立てて、跳ね上がる。
「昨日、ここで飯を食った連れが、ひどい腹痛で、今も寝込んでるんだ! てめえら、一体、どんな腐ったもんを、客に出してるんだ!」
「そ、そんなはずは……! うちは、公会の指導の下、衛生管理には、誰よりも気をつけております!」
女主人が、必死に反論するが、男たちは、聞く耳を持たない。
「うるせえ! 公会だか何だか知らねえが、客が腹を壊したってのは、事実だ! こんな不衛生な店は、今すぐ、営業停止にしろ!」
男たちは、他の客を威嚇するように、あたりを睨み回し、大声で、罵詈雑言を浴びせ続けた。楽しいはずだった食事の時間は、恐怖と、混乱に、完全に支配されてしまった。客たちは、怯えながら、そそくさと席を立ち、店を出て行ってしまう。
その騒ぎは、「木漏れ日亭」だけで起きたのではなかった。
同じ日の、ほぼ、同じ時間帯。街の中心街にある、公会章を掲げたパン屋や、市場の食堂でも、全く同じような、男たちによる、因縁としか思えない騒動が、同時多発的に、引き起こされていたのだ。
*
その日の午後、公会本部の私の執務室の扉が、慌ただしく、ノックされた。
「ギルドマスター! 大変です!」
息を切らして部屋に飛び込んできたのは、「木漏れ日亭」の女主人だった。彼女の顔は、涙と怒りで、ぐしゃぐしゃになっている。
「ならず者たちが、店で暴れて……! 根も葉もないことを、大声で……!」
彼女が、事の次第を、途切れ途切れに説明している、まさにその時だった。執務室の扉が、再び、叩かれた。
「ギルドマスター、申し訳ありません!」
今度は、パン屋の主人だった。彼の顔もまた、蒼白だ。
「うちの店にも、変な男たちが来て、店のパンは、カビだらけだと、騒ぎ立てて……!」
それから、まるで、堰を切ったように、加盟店の主人たちが、次から次へと、私の元へ、駆け込んできた。その報告内容は、どこも、全く同じだった。素性の知れない男たちが、店に押し入り、いわれのない、衛生面でのクレームをつけ、大声で騒ぎ立てて、営業を妨害した、と。
私は、次々と寄せられる、悲鳴のような報告を、冷静に、聞いていた。
これは、偶然ではない。
同じ日に、同じような手口で、複数の加盟店が、同時に攻撃されている。明らかに、誰かが裏で糸を引いている、組織的な妨害工作だ。
そして、こんな卑劣で短絡的な手段を使う人間を、私は、一人しか知らない。
私は、窓の外の静かになった街を見つめた。
やはり、来たか。
言葉による攻撃が、次の段階へ進んだのだ。だが、彼らは、まだ分かっていない。ここが、誰の領地で、そして、彼らが誰を敵に回そうとしているのかを。




