第150話 ギルドマスターの肖像
商人組合が公会への加盟を申し入れてから、街の様相は一変した。これまで公会章を掲げていなかった老舗の宿屋や食堂の軒先にも、あの蒸気と歯車の紋章が誇らしげに飾られるようになったのだ。街全体が、一つの大きな意志を持って、温かい食事という未来へ向かって動き始めたようだった。
それに伴い、私の立場もまた、この数ヶ月で大きく変わっていた。
ある日のこと、私は新しく公会に加盟した食堂の視察に訪れていた。店の主人と衛生管理の手順について話し込んでいると、ふと、店の一番目立つ壁に見慣れないものが飾られていることに気づいた。
それは、木炭で描かれた、私のささやかな肖像画だった。絵の腕は決して上手いとは言えなかったが、その特徴は驚くほど的確に捉えられている。そして、その下には、金色の塗料でこう記されていた。
『我らが温食公会、初代ギルドマスター、レティシア様を讃えて』
「……これは?」
私が尋ねると、店の主人は照れくさそうに頭を掻いた。
「へへ、どうです? 似てますかい? うちの組合員たちが、金と知恵を出し合って、絵心のある奴に描かせたもんです。今じゃ、公会に加盟してる店は、どこもこれを飾ってますよ。あんた様は、俺たちの誇りですから」
私は、その言葉に、どう返していいか分からなかった。
近くのテーブルで食事をしていた客たちが、私に気づいて、ひそひそと囁き合っているのが聞こえる。
「おい、あの方、もしかして」
「ああ、ギルドマスターご本人だ。お美しい方だな」
「公爵夫人様でもあるんだぞ。俺たちの暮らしを、こんなに変えてくださったんだ」
もはや、私は単なる「アレスティード公爵夫人」ではない。数百人を超える組合員の生活をその両肩に背負う、「温食公会」の創設者であり、初代ギルドマスター。それが、今の私の、もう一つの顔だった。
*
その肖像画を見るたび、私の胸には誇らしさと同時に、身が引き締まるような、ずしりと重い責任感がこみ上げてくる。
もう、アレス様の背中の後ろに隠れていることは許されない。私は、私の名前と、この顔で、この大きな仕組みを守り、育てていかなければならないのだ。誰かのために、ただ我慢し続けるだけの「いい子」だった私は、もうどこにもいない。
私は、私自身の意志で、この場所に立っている。その事実は、時折、怖ろしくもあったが、それ以上に、私の心を強く、支えてくれていた。
*
その夜、私は公会本部の、私のための小さな執務室で、一人、机に向かっていた。
窓の外は、とうに暗くなっている。机の上には、組合員のリスト、会計報告書、そして、次の講習会で教える新しい調理法の草案が、山のように積み上がっていた。一つ一つの書類の向こうに、この街で働く人々の顔が浮かんでくる。その生活を、未来を、私が預かっている。その重みが、心地よい疲労と共に、私の肩にのしかかっていた。
集中していた私の耳に、不意に、執務室の扉が静かに開く音が届いた。
顔を上げると、そこにアレス様が立っていた。彼は、私が仕事に没頭しているのを邪魔しないように、音も立てずに部屋に入ってくると、手にしていたものを、私の机の上に、そっと置いた。
湯気の立つ、一杯のハーブティーだった。
「無理はするな」
その、いつもと変わらない、短く、不器用な言葉。だが、その一言の中に、彼の、深い気遣いが、全て込められているのが分かった。
私は、ペンを置くと、彼が見守る中で、その温かいハーブティーを一口飲んだ。カモミールの優しい香りが、疲れた体に、じんわりと染み渡っていく。
「ありがとうございます、アレス様。ですが、これは、もう、私一人の夢では、ありませんから」
私は、彼を見上げて、微笑んだ。
アレス様は、私の言葉を聞くと、何も答えなかった。彼は、私の隣に立つと、窓の外に広がる、街の夜景に目を向けた。
眼下には、無数の家の灯りが、まるで地上に広がる星空のように、瞬いている。その一つ一つの灯りの下で、人々が、温かい食卓を囲んでいる。私たちが、この数ヶ月で、作り上げてきた光景だった。
しばらく、その夜景を眺めていたアレス様は、やがて、静かに、呟いた。
「ああ、そうだな」
彼は、窓ガラスに映る私に、視線を向けたまま、言葉を続けた。
「お前は、この街に、新しい心臓を作った」




