第149話 行列のできる食堂
公会章の授与式から一ヶ月が過ぎる頃には、その蒸気と歯車の紋章は、街の風景の一部として、すっかり定着していた。
そして、それは、単なる飾りではなかった。客にとって、あの青銅のバッジは「安くて、温かくて、本当に美味しい食事ができる店」を保証する、何よりも信頼できる目印となっていたのだ。
「やっぱり、あの紋章がある店は違うねえ」
「ああ。料理が美味しいのはもちろん、働いている給仕の子たちの顔つきが、生き生きしている」
「なんでも、公会に入ると、料理の腕が上がるだけじゃなく、給金もきちんと保証されるらしいじゃないか」
そんな噂が、井戸端会議や酒場のテーブルで、ごく当たり前のように交わされるようになっていた。
その評判を、最も象徴していたのが、レオが働く宿屋「木漏れ日亭」だった。彼のミートパイは、もはや街の名物を越え、他の街から、わざわざそれを目当てにやって来る旅人がいるほどの人気を博していた。「木漏れ日亭」の前には、昼時を過ぎても、長い行列ができるのが、日常の光景となっていたのだ。
公会の成功は、人々の胃袋と、そして、口コミという、最も確実な方法で、街全体に、急速に、広がっていった。
*
その一方で、街には、静かだが、深刻な変化が起きていた。
あの、公会設立の説明会で、あれほど、声高に、私に反発していた商人たちの店から、客足が、目に見えて、遠のき始めていたのだ。
ある日の午後、私は、所用で街の中心街を歩いていた。その途中、偶然、あの頑固な宿屋の主人の姿が、目に入った。彼は、自分の店の入り口で腕を組み、忌々しげな顔で、道の向かい側を睨みつけている。その視線の先にあるのは、公会章を掲げた、小さな食堂だった。その店先には、昼食を求める客たちの、活気ある列ができている。
一方、かつては街で一番の格式を誇った彼の宿屋の食堂は、昼時だというのに、閑散としていた。テーブルのほとんどは空席で、手持ち無沙汰の給仕が、所在なげに、床を掃いている。
彼は、ようやく、理解し始めたのだろう。時代の風が、自分たちの知らないうちに、全く違う方向へと、吹き始めていることを。そして、その風に帆を張ることができなければ、自分たちの船は、やがて、沈むしかないという、厳しい現実を。
その、どうすることもできない焦りと、プライドが入り混じった横顔は、数ヶ月前の、あの会合で見た、自信に満ちた姿とは、まるで、別人のようだった。
*
その、数日後のことだった。
私が、公会本部の執務室で、ブランドンと共に、会計報告書を確認していると、事務員の若い男が、慌てた様子で、部屋に飛び込んできた。
「ギルドマスター! そ、その、お客様なのですが……」
「どうしたの、そんなに慌てて」
「街の、商人組合の方々が、十数名ほど、面会を求めて、いらっしゃっております」
その報告に、私とブランドンは、顔を見合わせた。
やがて、執務室の扉が、静かに開かれた。
そこに立っていたのは、あの、宿屋の主人を先頭にした、見覚えのある商人たちの顔ぶれだった。食堂の主人、肉屋の親方、パン屋のギルド長。彼らは皆、数ヶ月前の、あの会合で、私を、あれほど、激しく、糾弾した男たちだった。
しかし、今の彼らの姿に、以前の、あの、挑戦的で、尊大な態度は、どこにもなかった。彼らは、まるで、判決を待つ罪人のように、一様に、うつむき、その顔には、疲労と、焦りの色が、濃く浮かんでいた。
長い、気まずい沈黙。
それを破ったのは、宿屋の主人だった。彼は、一歩前に進み出ると、床の板を見つめたまま、絞り出すような声で、言った。
「……奥様。我々が、間違っておりました」
その、たった一言に、彼の、そして、彼らの、この数ヶ月間の、苦悩と、屈辱が、全て、凝縮されていた。
「客は、皆、あんた様の、あの、紋章がある店に、流れていっちまった。うちの若い衆も、何人か、辞めちまった。公会に入れば、もっと腕が上がって、給金も良くなるんだと、そう、言い残してな。……もう、我々だけでは、どうすることも、できんのです」
彼は、ようやく、顔を上げた。その目には、懇願の色が浮かんでいる。
「どうか、我々にも、公会への加盟を、お許しいただきたい。この通りだ」
彼は、その場で、深々と、私に向かって、頭を下げた。
それに倣うように、後ろに控えていた商人たちも、一斉に、頭を垂れた。
私は、その光景を、静かに、見下ろしていた。
心の中に、勝利の高揚感がなかったわけではない。だが、それ以上に、強く感じていたのは、これが、アレス様の言った通り、必然の結果だったという、冷徹なまでの、納得感だった。
私は、静かに、口を開いた。
「顔を、お上げください。公会は、門戸を、誰に対しても、開いております。ですが、加盟には、条件があります」
私は、彼らの顔を、一人一人、見回しながら、はっきりとした口調で、告げた。
「公会が定めた、最低賃金と、労働時間の規定を、遵守すること。定期的な講習会に、従業員を参加させること。そして何より、この公会の理念に、心から、ご賛同いただくこと。その全てを、お約束いただけますか」
「……はい」
宿屋の主人が、かすれた声で、答えた。
「いたします。何でも、いたします。ですから、どうか」
「分かりました。では、加盟申請の書類を、お渡しします」
私は、ブランドンに目配せをした。彼は、無言で頷くと、用意してあった書類の束を取り出し、商人たちの前に、差し出した。
彼らは、その書類を、まるで、最後の希望であるかのように、大切そうに受け取ると、再び、深々と頭を下げ、静かに、部屋を後にしていく。
扉が閉まり、執務室に、再び、静寂が戻った。
ブランドンが、感慨深げに、ぽつりと、呟いた。
「……閣下の、おっしゃる通りになりましたな」




