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第14話 塩漬け肉とプライドの味

 温かいお茶会が成功し、屋敷の空気はさらに和らいだ。侍女たちの間では、私が考案したハーブティーの淹れ方を教え合うのが流行り始め、厨房では侍女長のフィーを中心に、新しい献立への意欲が満ち溢れている。

 だが、その温かい輪の中に、一人だけ頑なに加わろうとしない人物がいた。

 ゲルト。先代公爵の時代からこの厨房に仕える、古参の料理人だ。白髪混じりの髪をきっちりと撫でつけ、いつも腕組みをしながら厨房の隅に佇んでいる。彼の専門は、この寒冷地で最も重要な技術である保存食、特に塩漬け肉の管理だった。

 私が厨房の主導権を握ってから、彼は必要最低限の言葉しか発しない。その視線は、私のやる事なす事すべてを値踏みするようで、ちりちりとした居心地の悪さを感じていた。

 彼との間の見えない壁が決定的になったのは、数日前のことだ。

「ゲルトさん。この塩漬け肉ですが、少し塩が強すぎるようです。もう少し塩抜きの時間を長くしていただけますか」

 私が兵舎の煮込み用に準備していた肉についてそう指摘すると、彼はカッと目を見開き、低い声で言い返した。

「奥方。これは先代から受け継いだ、伝統の製法です。素人が口を出すことではございません」

 その言葉には、長年この厨房を、この家の食を支えてきたという、揺るぎないプライドが滲んでいた。それ以来、私たちの間の空気は、まるで真冬の湖面のように凍りついている。

 フィーが心配そうに私に囁いた。

「奥様、ゲルトさんは頑固ですが、腕は確かなんです。特に塩漬け肉に関しては、領内でも右に出る者はいません。ただ、自分のやり方を変えるのが、何より嫌いなだけで……」

「分かっているわ、フィー。だから、私が変わらないと」

 このまま彼を無視して改革を進めることもできる。けれど、それでは本当の意味でこの厨房を一つにすることはできない。彼の持つ技術と経験は、この家にとって間違いなく宝なのだ。それを、古いプライドと共に燻らせておくのは、あまりにもったいない。

 実家では、誰もが父と継母の顔色を窺い、波風を立てないように息を潜めていた。誰かの技術を褒めたり、協力を求めたりするような温かい関係性は、そこには存在しなかった。

 だからこそ、私はここで、それを作りたかった。

 私はエプロンの紐をきゅっと締め直し、決意を固めて彼の仕事場である、ひんやりとした地下の保存庫へと向かった。



 地下へと続く石の階段を下りると、独特の塩と香辛料、そして熟成された肉の匂いが鼻をついた。薄暗い保存庫の中、ゲルトは一人、天井から吊るされた巨大な肉塊を点検していた。

 彼は私の足音に気づくと、訝しげに眉をひそめた。

「……何かご用ですかな、奥方」

 その声は、あからさまに「邪魔をするな」と告げている。私は怯まず、一歩前に進んだ。

「ゲルトさん。あなたのお仕事を見せていただきたくて」

「仕事、ですと?」

「ええ。私は南方の出身で、これほど本格的な塩漬け肉の作り方を間近で見るのは初めてなのです。ぜひ、勉強させてください」

 私はただ、純粋な好奇心と敬意を込めて言った。前世の知識があるとはいえ、この世界の、この土地に根付いた技術には、学ぶべき点がたくさんあるはずだ。

 ゲルトは面食らったように、しばらく私を無言で見つめていた。彼の頭の中では、私がどんな魂胆でここに来たのか、必死で探っているのだろう。

 私は構わず、壁一面に並んだ樽や、天井から吊るされた肉を指し示した。

「このお肉は、どのくらいの期間漬け込むのですか?このハーブの配合は?塩の産地にもこだわりが?」

 矢継ぎ早に質問を重ねる私に、ゲルトは最初はぶっきらぼうに、しかし次第に、その口から言葉が滑らかに出るようになっていった。それは、長年培ってきた自分の技術について語る、職人の言葉だった。

「この豚バラ肉は、三週間。塩は北の岩塩に限る。湿気ると風味が落ちるんでな。ハーブはローズマリーとタイムが基本だが、冬場は少しだけジュニパーベリーを加える。香りが引き締まるんだ」

 彼の話は、私が本で読んだ知識よりもずっと深く、実践的だった。私は熱心に耳を傾け、時折、感嘆の声を上げた。

「素晴らしいですわ。まるで魔法のようですね」

 一通り説明が終わった後、私は彼に向き直り、深く頭を下げた。

「ゲルトさん。お願いがあります」

「……なんでしょう」

「あなたの作る、最高の塩漬け肉を、私にいただけないでしょうか。そのお肉を使って、閣下のため、最高のスープを作りたいのです」

 私の言葉に、ゲルトは息を呑んだ。

「私の煮込み料理と、あなたの塩漬け肉。その二つが合わされば、きっと、この屋敷で誰も食べたことのない一品が生まれるはずです。あなたの技術を、私に貸してください」

 否定ではなく、融合。対立ではなく、協力。

 彼はしばらくの間、石のように固まっていた。その顔には、戸惑いと、疑念と、そしてほんのわずかな、職人としての好奇心が浮かんでいた。

 やがて、彼は大きなため息を一つついてから、ぶっきらぼうに言った。

「……好きになさい。ただし、中途半端なものを作ったら、容赦しませんぞ」

 それは、彼なりの承諾の言葉だった。



 翌日の午後、厨房は奇妙な緊張感に包まれていた。

 ゲルトが、彼が「完璧だ」と認めた塩漬け肉の塊を、恭しく台の上に置いた。美しいピンク色をした肉の断面に、脂肪が綺麗に層をなしている。

「奥方。準備ができました」

「ありがとうございます、ゲルトさん」

 私はその肉を受け取ると、丁寧に下処理を始めた。他の料理人たちも、フィーも、遠巻きに私たちの作業を固唾を飲んで見守っている。

 私が担当するのは、煮込みの工程。まず、塩抜きした肉を香味野菜と共に大きな鍋に入れ、水を注いで火にかける。沸騰する直前で火を弱め、表面に浮いてくるアクを、神経質なほど丁寧に取り除いていく。この作業が、スープの透明度と味の雑味を決めるのだ。

 ゲルトは腕組みをして、私の手元を厳しい目つきで見ていた。だが、その視線には、以前のような敵意はなかった。むしろ、自分の育てた娘を嫁に出す父親のような、不安と期待が入り混じっているように見えた。

 コトコトと、鍋が静かに歌う。ハーブの束を加え、さらに数時間。厨房には、肉の旨味と野菜の甘みが溶け合った、天国のような香りが満ちていた。

 最後に味を確かめる。塩漬け肉から出た塩分だけで、ほとんど調味料は必要ない。足りない塩味をほんの少し補い、黒胡椒を挽く。

「……できました」

 私がそう言うと、厨房にいた全員から、ほう、と安堵のため息が漏れた。

 その日の夕食。公爵の食卓には、その特別なスープが一品だけ、主役として並べられた。



 夕食の時間が終わり、厨房で後片付けをしていると、執事長のブランドンが神妙な面持ちで入ってきた。厨房の全員の視線が、彼に集まる。

 ブランドンは私の前に立つと、一呼吸置いてから、告げた。

「奥方。閣下より伝言です」

 ごくり、と誰かが喉を鳴らす音がした。

「『これまでの人生で、最も美味いスープだった』と。……一滴も残さず、召し上がられました」

 その言葉が響いた瞬間、厨房は、わっと歓声に包まれた。フィーは私の腕を取って飛び跳ねんばかりに喜び、他の料理人たちも顔を見合わせて笑っている。

 私はその輪の中心で、そっとゲルトの方を見た。

 彼は壁際に一人、腕を組んで立っていた。その顔はいつも通り無愛想なままだったが、窓から差し込む月明かりに照らされた横顔は、どこか誇らしげに見えた。耳が、ほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

 翌朝のことだ。

 私がその日の献立を考えていると、ゲルトが私の隣にやってきて、ぼそりと言った。

「奥方。昨日のスープに入っていたカブですが、あれは煮込みにするより、厚めに切って炒めた方が甘みが出ますぞ」

 私は驚いて顔を上げた。彼は、私の目を見ずに、続ける。

「それと、保存庫に干しキノコの良いのが入った。あれなら、鶏肉と合わせると良い出汁が出るはずだ」

 それは、彼からの初めての、提案だった。

 私は、満面の笑みで頷いた。

「ええ、ぜひそうしましょう、ゲルトさん。一緒に、最高の料理を作りましょう」

 凍てついていた最後の氷が、完全に溶けた。この日、アレスティード公爵家の厨房は、本当の意味で一つの温かいチームになったのだ。

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