第148話 蒸気と歯車の紋章
温食公会が正式に発足してから、三ヶ月が経った。
最初の講習会から始まった小さな種は、この街の土壌にしっかりと根を張り、いくつもの確かな芽を出し始めていた。レオのミートパイは街の名物となり、衛生管理を徹底したパン屋は売り上げを伸ばし、公会で基礎を学んだ若者たちが、街の食堂の貴重な働き手として育ちつつあった。
そして今日、私たちはその最初の成果を祝うための、ささやかで、しかし、極めて重要な儀式を執り行うことになっていた。第一期講習会を修了し、それぞれの職場で確かな実績を上げた者たちへ、最初の「公会章」を授与する日だ。
公会本部の土間は、今日のために特別に飾り付けられ、いつもとは違う熱気に包まれていた。壇上が設けられ、その背後には公会の旗が掲げられている。私がデザインしたその紋章は、湯気の立つ温かいスープ皿を、無骨な歯車が力強く支えている意匠だった。それは、私たちの理念そのものだ。人々の心と体を温める食事(蒸気)と、それを支える揺るぎない技術と仕組み(歯車)。その二つが合わさって初めて、私たちの目指す未来が実現する。
会場には、今日、公会章を授与される職人たちだけでなく、その家族や、彼らを雇う店の主人、そして、噂を聞きつけた街の人々までが集まり、百人を超える人々でごった返していた。
*
やがて、定刻になると、会場のざわめきがすっと静まった。
私は、アレス様と共に壇上に上がる。彼の隣に立つと、会場の全ての視線が私たちに注がれるのが分かった。私は、集まった人々に向かって、静かに語り始めた。
「本日は、温食公会、第一回公会章授与式に、ようこそおいでくださいました。三ヶ月前、この場所で始まった私たちの小さな試みが、今日、最初の実を結んだことを、皆さんと共にお祝いできることを、心から嬉しく思います」
私の短い挨拶が終わると、いよいよ、授与式が始まった。
壇上の脇に控えていた二十名の職人たちが、緊張した面持ちで、一列に並ぶ。その中には、レオの姿もあった。彼は、新調したのだろうか、清潔なコックコートを身にまとい、その背筋を、まっすぐに伸ばしている。
アレス様が、一歩前に進み出た。彼は、手にした羊皮紙の巻物を広げると、その、低く、しかし、ホール全体に響き渡る声で、最初の名前を、厳かに、呼び上げた。
「レオ・シュルツ」
名前を呼ばれたレオは、はっとしたように顔を上げ、硬い足取りで、私たちの前に進み出た。
私は、ビロードの盆の上に並べられた、青銅製の小さなバッジを、一つ、手に取った。それは、太陽の光を受けて、鈍く、しかし、確かな輝きを放っていた。
私は、レオの前に立ち、彼の胸元に、その公会章を、そっと、留めた。指先が、彼の少し震えている胸に触れる。
「おめでとう、レオさん。あなたの努力の証です」
「……ありがとうございます」
彼の、絞り出すような声が、小さく、震えていた。
レオが一礼して列に戻ると、アレス様は、次の名前を呼び上げた。
「マルタ・バウアー」
宿屋の厨房で働く、あの恰幅のいい女性料理人が、誇らしげな顔で、前に進み出る。
儀式は、厳粛に、そして、淡々と、進んでいった。
アレス様が名前を呼び、私が、一人一人の胸に、その証を留めていく。パン屋の無口な主人、市場で働く若い肉屋の青年、そして、下働きから身を起こし、調理の技術を認められた少女。その誰もが、少し震える手で、自分の胸に輝く、その小さなバッジに、そっと、触れていた。
*
二十人全員への授与が終わると、会場から、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
壇上に並んだ職人たちは、その拍手を浴びながら、少し照れくさそうに、しかし、胸を張って、立っていた。彼らは、その小さな青銅のバッジを、まるで、戦場で勝ち取った勲章のように、あるいは、王家から授けられた爵位のように、誇らしげな目で見つめていた。
それは、単なる金属の塊ではない。
自分たちが、これまでのような、名もなき「下働き」や「雇われ人」ではないことを、証明するもの。確かな技術を持ち、互いに支え合い、そして、この街の食を担う、専門家集団の一員であることを、はっきりと示す、初めての証だった。
私は、その光景を、アレス様の隣で、静かに見つめていた。
彼らの胸に、そして、この街に、新しい誇りが、確かに、芽生えた瞬間だった。それは、誰かから与えられたものではない。彼ら自身が、自らの努力と意志で、その手で掴み取った、本物の誇りだ。
授与式が終わった後も、会場の熱気は、しばらく、冷めることがなかった。人々は、互いの肩を叩き合い、新しい公会章を指さしては、その功績を讃え合っていた。その輪の中心で、レオが、仲間たちに囲まれ、少しはにかみながらも、嬉しそうに笑っているのが見えた。




