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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第147話 レオのミートパイ

 講習会は週に一度のペースで続けられ、回を重ねるごとに参加者の数は増えていった。衛生管理の知識が広まったことで、市場の食料品店の店先は以前よりも清潔になり、講習会で共有された簡単なスープの調理法は、貧しい地区の家庭の食卓を、少しだけ豊かにした。

 それは、まだ、革命と呼ぶには、あまりにもささやかで、地味な変化だった。だが、固く凍てついていた地面の下で、確かに、新しい命が芽吹き始めている。私には、その確かな手応えがあった。

 そんな変化の兆しの中でも、私が最も気にかけていたのは、王都から来た青年、レオのことだった。

 第一回の講習会で、誰よりも熱心に私の話に耳を傾けていた彼は、その後、公会の紹介で、街の西側にある小さな宿屋の厨房で働くことになっていた。「木漏れ日亭」という、その名の通り、古いが、日当たりの良い、こぢんまりとした宿屋だった。

 侍女長のフィーが、街へ買い物に出るたびに、彼の噂を仕入れてきては、私に報告してくれた。

「奥様、聞きました? レオさん、新しい料理を考え出したそうですわよ」

「まあ、どんな料理なの?」

「なんでも、この地方でたくさん採れる香りの良いハーブを、挽肉に混ぜ込んで、パイ生地で包んで焼いたものだとか。宿の主人は、最初、そんな面倒なもの、と、あまり乗り気ではなかったらしいのですが」

 フィーは、楽しそうに、声を潜めて続けた。

「試しに、旅の客に出してみたら、これが、大変な評判になったそうです。今では、そのミートパイを目当てに、昼時になると、わざわざやって来る客もいるとか」

 その話を聞いた時、私の胸に、温かいものが、じんわりと広がっていくのを感じた。

 誰かに命じられたからではない。彼が、彼自身の意志で、新しい一歩を、踏み出したのだ。

 その小さな成功の物語を、私は、自分のことのように、嬉しく思った。



 数日後の、穏やかな昼下がり。

 私は、フィーだけを供につれ、お忍びで、その「木漏れ日亭」を訪れた。

 宿屋の食堂は、フィーの話の通り、昼の盛りを少し過ぎた時間だというのに、多くの客で賑わっていた。旅人らしき男たち、近くで働く職人、そして、井戸端会議に花を咲かせている主婦たち。そのほとんどのテーブルの上に、こんがりと焼き色のついた、丸いパイが置かれている。

 食堂の壁に掛けられた黒板には、拙いが、心のこもった文字で、こう書かれていた。

『本日のおすすめ レオの特製ハーブミートパイ』

 私は、空いていた窓際のテーブルに腰を下ろし、女主人に、そのミートパイを二つ、注文した。

「あら、奥様、初めてのお顔だね。うちのパイは、初めてかい? きっと、驚くよ。あんなに腕のいい若い料理人が、うちみたいな小さな店に来てくれるなんて、あたしゃ、本当に、運がいいんだ」

 女主人は、悪びれもせずに、そう言って、にこやかに笑った。その顔には、以前の商人たちの会合で見たような、猜疑心や、警戒心は、どこにもなかった。

 しばらくして、注文した料理が、湯気を立てながら、運ばれてきた。

 その皿を、テーブルに置いたのは、白いエプロンをつけた、レオその人だった。

「お待たせいたしました。特製ミートパ……」

 彼は、私の顔を見ると、言葉の途中で、はっと息を呑み、その目を、大きく見開いた。

「お、奥様!?」

「こんにちは、レオさん。あなたのパイが、とても美味しいと評判だと聞いて、食べに来ましたのよ」

 私が微笑みかけると、彼の顔が、一瞬で、真っ赤に染まった。

「そ、そのような……! お口に合うかどうか」

「大丈夫よ。この食堂の、この温かい空気と、お客様たちの満足そうな顔が、何よりの証拠ですわ」

 私は、彼の緊張をほぐすように、そう言った。

 レオは、どうしていいか分からないといった様子で、しばらく、その場に立ち尽くしていたが、厨房の奥から、女主人の「レオ、ぼさっとしてないで、次の注文!」という、威勢のいい声が飛んでくると、我に返ったように、深々と、私に一礼し、慌てて、厨房へと戻っていった。



 私は、目の前のミートパイに、ナイフを入れた。

 さっくりとしたパイ生地を切り分けると、中から、じゅわっと、肉汁が溢れ出し、ハーブの、爽やかで、食欲をそそる香りが、ふわりと、立ち上った。

 一口、口に運ぶ。

 バターの風味豊かなパイ生地は、驚くほど、軽く、サクサクとした歯触りだ。中の挽肉は、粗めに挽かれていて、肉そのものの、しっかりとした食感が残っている。そして、噛みしめるごとに、口の中に広がる、数種類のハーブが織りなす、複雑で、豊かな香り。それは、王宮で出されるような、洗練された料理とは、全く違う。素朴で、飾り気はない。だが、食べる人の体を、芯から温め、元気付けたいという、作り手の、温かい心が、まっすぐに、伝わってくるような、素晴らしい味だった。

 私が、夢中でパイを食べていると、フィーが、嬉しそうに、囁いた。

「……やりましたわね、奥様」

「ええ。これは、私が教えたものではないわ。彼が、自分で考え、自分の手で、作り上げた味よ」

 私は、最後の一口を、ゆっくりと、味わった。

 食事を終え、私たちが席を立つと、厨房の入り口から、レオが、再び、顔を出した。その顔には、不安と、期待が、ありありと浮かんでいる。

 私は、彼の前に歩み寄ると、心からの気持ちを、伝えた。

「レオさん、本当に、美味しかったわ。今まで食べた、どんなミートパイよりも、温かくて、心のこもった、素晴らしい味でした」

 私の言葉に、彼の瞳が、潤んだ。

「……ありがとうございます」

 彼は、それだけを言うのが、精一杯だった。

 そして、私の目の前で、深く、深く、頭を下げた。

 その背中は、初めて、公爵家の応接室で会った時のような、弱々しさや、自信のなさは、もう、どこにもなかった。自分の仕事に、確かな誇りを持つ、一人の、立派な職人の背中だった。

 私とフィーが、宿屋を出る時、女主人が、勘定台の奥から、大きな声で、言った。

「奥様、また、いつでも、食べに来ておくれよ!」

 私は、振り返り、にこやかに、頷いた。

 宿屋の外に出ると、午後の陽光が、柔らかく、私の頬を照らした。

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