第142話 羊皮紙の上の設計図
暖炉の火が揺れる静かな部屋に集うのは、私とアレス様、そして公爵家の全ての実務を司る執事長ブランドンの三人。巨大なオーク材のテーブルの上には、真っ白な羊皮紙とインク、そしてこの領地の地図が広げられていた。
「では、始めようか」
アレス様の低い声が、会議の開始を告げた。
ブランドンは、その銀縁の眼鏡の奥から、探るような視線を私に向けている。彼はアレス様への忠誠心は厚いが、同時に極めて現実的な男だ。昨夜の私の理想論に、彼が全面的に賛同しているとは思えなかった。
私は、彼の視線をまっすぐに受け止めると、一枚の羊皮紙をテーブルの中央に滑らせた。
「まず、私が考える公会の骨子についてご説明します。」
組合員の地位の保証
「働く者たちの生活を守るための基盤です。具体的には、最低限支払われるべき賃金と、一日の労働時間の上限を定めます。そして何より、正当な理由なき解雇を禁じ、公会が組合員を法的に保護する仕組みを作ります」
「お待ちください、奥様」
私の言葉を遮ったのは、案の定ブランドンだった。彼の声には、明確な懸念が滲んでいる。
「それは、あまりにも革命的すぎます。賃金や労働時間は、雇用主が個別に決めるのがこの国の慣習。それを一方的に制限すれば、領内の商人や宿屋の主人たちから、猛烈な反発を招くのは必至です」
「ええ、承知しています。だからこそ、二つ目の柱が必要になるのです」
私は動じることなく、二つ目の項目を書き加えた。
技術の共有と向上
「公会は、定期的に料理の講習会を開きます。また、様々な調理法を記録した書庫を設け、組合員なら誰でも閲覧できるようにします。これにより、領全体の料理の質が底上げされ、店の評判が上がり、結果的に雇用主の利益にも繋がります。目先の賃金より、はるかに大きな利益がもたらされることを、彼らに理解してもらうのです」
「秘伝の調理法を公開しろと? とんでもない。職人たちが自分の技術を盗まれると反発するだけでしょう。そもそも、誰が教えるのですか」
「最初は、私が教えます。そして、いずれは公会で育った者たちが、次の世代を教えるようになる。技術は独占するものではなく、共有することで、さらに発展していくものだと、私は信じています」
私は、最後に三つ目の項目を記した。
品質の認証制度
「そして、これが公会の最も分かりやすい価値になります。公会が定めた基準――衛生管理、調理技術、そして適正な労働環境――を満たした店や職人に対し、その証として『公会章』を与えます。お客様は、その紋章がある店を、安心して選ぶことができる。職人にとっては、それは誇りの証となるでしょう」
ブランドンは、三つ目の項目には、わずかに眉を動かしただけだった。彼の表情は、依然として険しい。
「……理屈は分かります。ですが、奥様。最も肝心なことが、抜け落ちております」
彼は、テーブルに両手をつき、私をまっすぐに見据えた。
「この壮大な仕組みを動かすための、財源です。公会の運営費、講習会の費用、書庫の維持費。一体、その莫大な資金を、どこから捻出なさるおつもりですか」
それは、当然の、そして、最も厳しい指摘だった。
*
その問いを待っていたとばかりに、私は用意していたもう一つの書類の束を、テーブルの上に置いた。
「もちろん、それも考えております。こちらが、公会設立後、最初の三年間を見越した、詳細な予算案です」
私の言葉に、ブランドンは目を丸くした。彼は、半信半疑といった様子で、その羊皮紙の束を手に取る。そこには、収入の部として、組合員から徴収する会費、公爵家からの初期出資金、そして、将来的には公会章の使用料。支出の部として、人件費、施設の賃料、教材費といった項目が、細かい数字と共に、整然と書き込まれていた。
「これは……」
ブランドンは、食い入るように、その書類に目を通している。彼の表情から、少しずつ、ただの懐疑ではない、専門家としての厳しい検討の色が浮かび上がってきた。
「収入の見込みが、楽観的すぎませんか。会費を払ってまで、加入する者が、それほどいるとは……」
「だからこそ、初期投資が必要なのです。最初の成功例を作り、公会に加入することが、これだけの利益を生むのだと、目に見える形で示さなければなりません」
私たちの議論が白熱するのを、アレス様は、腕を組んだまま、静かに聞いていた。しかし、ブランドンが、なおも財源の問題に固執した時、彼は、初めて、重々しく口を開いた。
「ブランドン」
その一言で、書斎の空気が引き締まる。
「お前の言うことも、一理ある。だが、視点が、あまりにも、短期的すぎる」
アレス様は、立ち上がると、壁に掛かった領地の地図の前に立った。
「これは、経費ではない。領地への、投資だ。考えてみろ。領内の食の質が上がれば、旅人が増え、金が落ちる。職人たちの地位が向上し、所得が増えれば、それは、そのまま、税収の増加に繋がる。五年後、十年後を見据えれば、公爵家からの初期投資など、すぐに回収できる、極めて効率の良い投資だ」
それは、一介の執事長ではなく、この領地の全てを背負う、統治者ならではの大局観だった。ブランドンは、アレス様の言葉に、ぐっと、息を呑んだ。彼の表情から、ようやく、頑なな抵抗の色が消えていく。
「……かしこまりました。閣下が、そこまでお考えであれば」
彼は、私に向き直ると、深く、頭を下げた。
「奥様、先程までの非礼、お許しください。私の見識が、及ばなかったようです。これよりは、私も、この計画の実現に向け、全力でお支えいたします」
その言葉は、この計画が、私の個人的な夢物語から、アレスティード公爵家の、公式な事業へと昇華した瞬間を、意味していた。
*
その日から、私たちの作業は、さらに、緻密さを増していった。
ブランドンが、現実的な視点から、次々と、法的な問題点や、手続き上の障壁を洗い出していく。私は、その一つ一つに対応するための、具体的な規約の草案を、夜を徹して、書き上げていった。
前世で、数え切れないほどの企画書や、契約書を作成してきた経験が、ここで、思わぬ形で、役に立った。私は、この世界の法律や慣習をブランドンに教わりながら、誰にも、文句のつけようのない、完璧な規約集を、作り上げていく。
アレス様は、その全ての書類に、自ら、目を通した。そして、統治者としての視点から、条文の一つ一つを、厳しく、精査していく。彼の的確な修正が、私の作る設計図を、さらに、強固で、揺るぎないものへと、変えていった。
数日が過ぎた、ある日の深夜。
ようやく、公会設立に関する、全ての草案が、完成した。それは、分厚い一冊のファイルに、まとめられていた。
ブランドンは、その、完成した書類の束を、信じられないといった表情で、見つめている。
「……驚きました。これは、もはや、夢物語などではない。寸分の隙もない、完璧な、実現可能な計画書です」
彼の声には、心からの感嘆が、こもっていた。
私は、安堵のため息をついた。
アレス様は、その書類の束を、静かに手に取ると、その表紙を、指で、そっと、なぞった。
「ああ。これで、ようやく、革命の設計図が、完成した」
彼の灰色の瞳が、暖炉の炎を映して、静かに、燃えていた。
私たちの戦いは、まだ、始まったばかりだ。この設計図を、現実のものとするためには、これから、さらに、多くの困難が待ち受けているだろう。
だが、私の心に、不安はなかった。
この、世界で最も信頼できるパートナーたちと共に、私たちは、必ず、この革命を、成し遂げてみせる。
書斎の窓の外は、すでに、白み始めていた。
北の地に、新しい朝が、訪れようとしていた。




