第141話 訪問者
王都からアレスティード領へ戻って、宮廷での騒動は、まるで遠い嵐の夜の出来事のように感じられた。領地の空気は穏やかで、屋敷の日常は以前と変わらぬ静けさの中にあった。私が王宮の分厚い壁に開けた小さな風穴は、北の地まで届く確かな追い風となり、私たちの改革を後押ししてくれている。
アレス様とのパートナーシップも、あの王都での戦いを経て、より深く、揺るぎないものになっていた。言葉を交わさずとも、互いの考えが分かる。同じ未来を見据えているという、静かな確信が私たちの間に満ちていた。
全ては順調だった。しかし、私の胸の奥には、小さな棘が一本、刺さったまま抜けないでいた。
あの宮廷厨房で見た、若い料理人たちの顔が忘れられないのだ。才能と情熱を持ちながらも、古い因習という名の分厚い壁に阻まれ、その瞳から希望の光を失っていた彼らの姿。私の行動は、彼らに一瞬の希望を見せたかもしれない。だが、その後、彼らはどうなったのだろう。私が去ったあの場所で、彼らは再び、あの息の詰まるような日常に戻ってしまったのではないか。
一人の力には限界がある。その事実が、達成感に満たされるべき私の心に、時折、冷たい影を落としていた。
*
その日、私は侍女長のフィーと共に、厨房で冬に向けた保存食の新しいレシピを試作していた。穏やかな午後の光が、磨かれた銅鍋に反射してきらめいている。そんな平和な時間を破ったのは、執事長ブランドンの静かだが、どこか緊張をはらんだ声だった。
「奥様、お客様がお見えです」
私が手を止めて振り返ると、ブランドンは少し困惑したような表情で続けた。
「それが、王都からいらしたと。奥様に、どうしても、直接お会いしたいと申しておりまして」
王都からの客。私の脳裏に、宮内卿オルダスの冷たい顔が浮かんだ。また新たな嫌がらせだろうか。
「どのような方ですの?」
「それが……貴族の方ではないようです。年の頃は二十歳前後かと。身なりは、その、あまりよろしくありません」
ブランドンの言葉に、私は眉をひそめた。貴族ではない、若い男。一体、何の用だろう。
「分かったわ。応接室へお通しして。すぐに行きます」
私はエプロンを外し、フィーに後を任せると、急いで応接室へと向かった。胸騒ぎがした。それは、面倒事が始まる予感とは少し違う、もっと個人的で、無視できない何かだった。
*
応接室の扉を開けると、そこには一人の青年が、硬い椅子に浅く腰掛け、落ち着かない様子で座っていた。
ブランドンの言う通り、その身なりは旅の疲れと貧しさを物語っていた。着ている服は擦り切れ、顔には疲労の色が濃い。しかし、その背筋はまっすぐに伸びており、膝の上で固く握りしめられた両手は、ごつごつとして、労働者のそれだった。
私が部屋に入ると、青年は弾かれたように立ち上がり、深々と頭を下げた。
「突然の訪問、大変申し訳ありません。アレスティード公爵夫人様で、いらっしゃいますか」
その声は、緊張で少し上ずっていたが、どこか芯のある、澄んだ響きを持っていた。
「ええ、私がレティシアです。どうぞ、お掛けになって。長旅でお疲れでしょう」
私が促すと、彼は恐縮したように、再び椅子に腰を下ろした。
「それで、王都から私を訪ねてきたとのことですが、ご用件は何かしら」
私の問いに、青年は一度、ぐっと唇を引き結んだ。そして、意を決したように顔を上げると、私をまっすぐに見つめて言った。
「私の名前は、レオと申します。先日まで、王宮の厨房で、見習いとして働いておりました」
その言葉に、私は息を呑んだ。やはり、そうだったのか。
「……あなたのことは、覚えています。あの晩餐会の時、私の指示に、誰よりも早く動いてくれた方ですね」
私の言葉に、レオの目が驚きに見開かれた。
「覚えていて、くださったのですか」
「ええ、もちろん。あなたの手際の良さは、見事なものでした」
私がそう言うと、彼の強張っていた表情が、ほんの少しだけ和らいだ。しかし、その瞳には、すぐにまた、暗い影が落ちる。
「あの日の奥様の料理は、まるで魔法のようでした。冷たくて、静まり返っていたあの厨房が、一瞬だけ、まるで生き物のように、熱く、脈打った。私は、生まれて初めて、料理を作ることが、これほどまでに心躍るものなのだと知りました」
彼は、そこで一度言葉を切り、うつむいた。握りしめた拳が、小さく震えている。
「ですが、奥様が王都をお発ちになった後、厨房は、元の、いえ、以前よりもっとひどい場所に戻ってしまいました。奥様に協力した者は、皆、伝統を軽んじた者として、白眼視され……私は、些細なミスを理由に、厨房を追い出されました」
彼の告白は、私の胸に、重い石のように沈んだ。私が恐れていたことが、現実になっていたのだ。私の行動が、結果的に、この前途ある若者の未来を、奪ってしまった。
「そんな……申し訳ありません。私のせいで」
「いえ、奥様が謝ることではありません!」
レオは、かぶりを振った。
「悪いのは、古いやり方にしがみついて、変わろうとしない、あの人たちです。私は……私は、ただ、もう一度、あの日のような、温かい料理が作りたい。その一心で、故郷である、この北の地まで、戻ってまいりました」
彼は、再び、私の顔をまっすぐに見た。その瞳には、涙が浮かんでいたが、その奥には、まだ消えていない、確かな炎が宿っていた。
「お願いします、奥様。私には、もう、料理を作る場所がありません。ですが、諦めたくないのです。どうか、私を、この屋敷の厨房の、一番下の仕事でも構いません。ここで、働かせてはいただけないでしょうか」
彼の、か細く、しかし、魂のこもった声が、静かな応接室に響いた。
私は、彼の言葉を、ただ、黙って聞いていた。
彼を、この屋敷で雇うことは、たやすい。だが、それで、本当に、問題は解決するのだろうか。彼一人を救っても、王都には、まだ、たくさんの「レオ」がいる。この国の、他の街の厨房でも、同じように、才能ある若者が、理不尽に、その芽を摘まれているのかもしれない。
これは、彼一人の問題ではない。もっと、根深い、構造そのものの問題なのだ。
私は、静かに立ち上がった。
「レオさん。あなたのお話は、分かりました。今夜は、客室で、ゆっくりと旅の疲れを癒してください。あなたをどうするかは、明日、改めて、お返事します」
私の言葉に、レオは、不安そうな顔をした。しかし、彼は、何も言わずに、再び、深く頭を下げた。
*
その夜、私は書斎で、一人、暖炉の火を見つめていた。
レオの顔が、脳裏から離れない。彼を救いたい。だが、それは、対症療法でしかない。私が本当にすべきことは、病気の原因そのものを、取り除くことだ。
個人の力には限界がある。一人の天才が現れても、その人がいなくなれば、全ては元に戻ってしまう。本当に世界を変えるには、持続可能な「仕組み」が必要だ。働く者たちが、理不尽な権力から、自分たちの手で、自分たちの生活を守るための仕組み。互いの技術を高め合い、正当な評価を得られるための仕組み。
その時、私の頭の中に、前世の記憶が、鮮やかに蘇った。
労働組合。業界団体。ギルド。
そうだ。それだ。
職人たちが、自ら、組織を作るのだ。互いに助け合い、技術を共有し、その地位を向上させるための、自治組織。それがあれば、レオのような若者が、一人で泣き寝入りする必要はなくなる。
私の心の中で、バラバラだった点と点が、一つの線として、はっきりと繋がった。それは、単なる思いつきではない。確かな勝算のある、具体的な計画だった。
私は、決意を固めると、アレス様の執務室の扉を叩いた。
彼もまた、机に向かい、山のような書類と格闘していた。私が部屋に入ると、彼はペンを置き、静かに私を見つめた。
「どうした。何か、問題でも起きたか」
「問題ではありません。ご相談したいことがあるのです」
私は、彼の机の向かいの椅子に座ると、今日の午後にあった、レオとの一件を、かいつまんで話した。そして、そこから、私が考えついた、新しい構想を、一つ一つ、言葉にしていった。
「個人の力には限界があります。一人を救っても、また次の誰かが、理不尽に職を失うだけです。この状況を、根本から変えるには、働く者たち自身が、互いを守り、技術を高め合うための『仕組み』が必要だと思うのです」
私は、前世の知識を元に、職人と厨房で働く人々のための「公会」を設立するという構想を、彼に、初めて、打ち明けた。
アレス様は、腕を組み、黙って、私の話を聞いていた。彼の表情からは、何を考えているのか、読み取ることはできない。
私は、続けた。
「これは、単なる慈善事業ではありません。公会を作り、職人たちの技術水準と労働意欲を向上させることは、領地全体の食文化の質を、底上げすることに繋がります。それは、新しい名物料理を生み、他の領地からの訪問者を増やし、ひいては、この領地全体の、新たな産業を創出するための、戦略的な投資になるはずです」
私は、感情に訴えるのではなく、統治者である彼を納得させるための、論理と、未来への展望を、必死に、言葉にした。
長い、沈黙が流れた。
暖炉の薪が、ぱちり、と音を立ててはぜる。
やがて、アレス様は、組んでいた腕を解くと、その、灰色の瞳で、私を、まっすぐに、見据えた。
そして、彼の唇の端が、ほんの、わずかに、持ち上がった。
「面白い」
彼は、静かに、しかし、その声に、確かな熱を込めて、言った。
「北の地から、王国全体の常識を覆す、新たな革命を始めるというわけか」
その言葉は、私の計画に対する、彼の、全面的な肯定を、意味していた。




