第139話 王太后の気まぐれ
晩餐会は、予定通り、夜七時に始まった。
会場となったのは、王宮の中でも最も格式の高い、「白銀の間」と呼ばれる広間だった。昨夜の歓迎の晩餐会が開かれた場所よりも、さらに狭く、そして、その分、より息の詰まるような緊張感に満ちていた。
招待客は、わずか三十名。だが、その顔ぶれは、王国の中枢を担う、最も権力のある人間たちばかりだった。国王陛下、王太后陛下、そして、宮内卿オルダスを筆頭とする、王家の重臣たち。
テーブルは、一つの長いものが、広間の中央に設えられている。国王陛下が上座に座り、その左右に、王族と重臣たちが、序列に従って、整然と並んでいた。
私とアレス様は、主賓として、国王陛下のすぐ近くの席に案内された。
私は、深呼吸をして、心を落ち着けた。
厨房での五時間の戦いを終え、私の手には、完成した料理があった。それは、華やかさでは、宮廷の料理に劣るかもしれない。だが、この一皿には、確かな命がある。
問題は、この場にいる人々が、それを、認めてくれるかどうか、だった。
晩餐会が始まると、まず、宮廷の料理人たちが用意した、前菜が運ばれてきた。それは、いつも通りの、美しく、そして、冷たい料理だった。色とりどりの魚介のマリネ。透き通ったゼリーで固められた、野菜のテリーヌ。
招待客たちは、それを、淡々と、口に運んでいる。誰も、特別な感想を口にすることはない。ただ、完璧な作法で、食事を進めているだけだった。
その空気は、昨夜の晩餐会と、全く同じだった。冷たく、静かで、まるで生きている人間たちの集まりではなく、儀式を執り行う、彫像の集まりのようだった。
そして、前菜が終わり、次の料理として、私が作った一皿が、運ばれてくる番が来た。
給仕係たちが、銀の蓋に覆われた皿を、一人一人の前に、静かに置いていく。
広間に、緊張が走った。
全ての視線が、私に集中する。
その中には、期待よりも、むしろ、失笑や、侮蔑の色が、濃く滲んでいた。
宮内卿オルダスは、私の斜め向かいの席に座っていた。彼は、相変わらず、無表情だったが、その瞳の奥には、勝利を確信した、冷たい光が宿っていた。
国王陛下が、静かに、手を上げた。
それが、合図だった。
給仕係たちが、一斉に、銀の蓋を、外した。
瞬間、広間中に、香りが広がった。
それは、豆のスープの、素朴で、だが、深い香り。そして、チーズと豚肉を焼き上げた、香ばしい香り。
招待客たちの、表情が、わずかに、動いた。
彼らは、自分たちの前に置かれた料理を、不思議そうに、見つめている。
皿の上にあるのは、三品だった。
一つ目は、白い陶器の器に入った、豆とチーズの団子が浮かぶ、温かいスープ。二つ目は、薄切りの豚肉と野菜を、パイ生地で包んで焼き上げた、小さな一口パイ。三つ目は、チーズと小麦粉を練り合わせて焼いた、素朴な焼き菓子。
どれも、決して、華やかではなかった。
色彩も、宮廷の料理のような、計算された美しさは、ない。
だが、その皿からは、確かに、湯気が立ち上っていた。
温かい料理。
この、「白銀の間」という、神聖な場所に、何百年もの間、持ち込まれることのなかった、禁忌の一皿。
広間の空気が、一瞬で、凍りついた。
何人かの重臣たちが、明らかに、眉をひそめた。
その中の一人、白髯の老伯爵が、あからさまに不快そうな声を上げた。
「これは、一体、どういうことだ。温かい料理など、礼法に反する」
「野蛮だ。まるで、平民の食事ではないか」
あちこちから、囁きが漏れ始める。
宮内卿オルダスが、静かに、立ち上がった。
「陛下。これは、明らかに、宮廷の伝統を、冒涜する行為でございます。公爵夫人には、我が国の礼法を、全く、理解されていない」
その言葉に、何人かの重臣が、同意するように、頷いた。
私は、立ち上がろうとした。
だが、その前に、アレス様が、私の手を、そっと、押さえた。
彼は、私に、小さく首を振った。
まだ、動くな、と。
その時だった。
*
上座に座っていた、王太后陛下が、動いた。
彼女は、七十歳を超える高齢だったが、その背筋は、まっすぐで、その瞳には、鋭い知性の光が宿っていた。
王太后は、侍女が止めるのも聞かず、自ら、目の前のスープの器に、手を伸ばした。
広間の、全ての音が、消えた。
全ての視線が、王太后の、その、細く、皺の寄った手に、注がれた。
彼女は、銀のスプーンを手に取ると、ゆっくりと、スープを、すくい上げた。
湯気が立ち上る。
そして、彼女は、そのスープを、一口、静かに、口に運んだ。
長い、沈黙。
誰もが、息を殺して、王太后の、次の言葉を、待っていた。
王太后は、目を閉じて、ゆっくりと、スープを味わっている。
その表情からは、何も読み取れない。
やがて、彼女は、スプーンを、器に戻した。
そして、ゆっくりと、目を開けた。
その瞳が、私を、まっすぐに、見つめた。
「そなた。これは、何という料理じゃ?」
王太后の声は、低く、威厳に満ちていた。
私は、立ち上がると、深く、一礼した。
「それは、料理と呼べるような、立派なものではございません、陛下。ただ、限られた時間と材料の中で、お客様に、少しでも、温まっていただきたい一心で、お作りした、スープでございます」
王太后は、私の答えを聞くと、ふん、と、鼻を鳴らした。
そして、再び、スプーンを手に取ると、もう一口、スープを、すくい上げた。
今度は、中に浮かんでいる、チーズの団子を、一緒に。
彼女は、それを、ゆっくりと、噛みしめた。
そして、団子から溢れ出た、熱いチーズが、彼女の舌の上で、広がる。
王太后の、薄い唇の端が、ほんの少しだけ、持ち上がった。
それは、笑みだった。
極めて、小さな、しかし、確かな、笑み。
「……面白い」
その、たった一言が、広間中に、響き渡った。
招待客たちが、一斉に、ざわついた。
王太后は、スープの器を、テーブルに戻すと、再び、私を見つめた。
「実に、面白い。この、舌が焼けるような、行儀の悪い温かさ。そして、この、素朴で、力強い味。長年、宮廷の、あの、美しくて、死人のような料理ばかりを、食べさせられてきた、儂の舌には、かえって、新鮮じゃ」
その言葉に、宮内卿オルダスの顔色が、明らかに、変わった。
王太后は、彼を一瞥すると、冷たく言い放った。
「オルダス卿。そなたは、これを、野蛮だと申したな。だが、儂には、そなたたちが、守り続けてきた、あの、冷たい料理の方が、よほど、野蛮に思えるぞ。食事とは、人の命を繋ぐものだ。それを、ただ、見た目だけ美しく飾り立て、肝心の温かさを奪うなど、本末転倒ではないか」
オルダスは、反論しようとした。
だが、王太后は、手を上げて、それを制した。
「黙れ。儂は、まだ、話しておる」
彼女は、再び、私に向き直った。
「そなた、名は何と申す」
「レティシア・アレスティードと申します」
「レティシア、か。良い名じゃ。そなたの料理は、確かに、礼法には反しておる。だが、儂の心には、届いた。それで、十分じゃ」
王太后は、そう言うと、国王陛下を見た。
「息子よ。儂は、この料理を、気に入った。そなたも、食べてみよ」
国王陛下は、一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。
だが、母である王太后の言葉に、逆らうことはできない。
彼は、静かに、目の前のスープに、手を伸ばした。
そして、一口、それを、口に運んだ。
国王陛下の表情が、わずかに、変わった。
彼は、もう一口、スープを飲んだ。
そして、焼き菓子にも、手を伸ばした。
広間中の視線が、国王陛下に集中する。
やがて、国王陛下は、スープの器を置くと、私を見た。
「……悪くない」
その一言が、全てを、変えた。
重臣たちが、一斉に、自分たちの料理に、手を伸ばし始めた。
最初は、恐る恐る、といった様子だったが、一口食べると、その表情が、明らかに、変わっていく。
驚き、戸惑い、そして、興味。
広間の空気が、完全に、反転した。
失笑は消え、代わりに、小さな驚きの声と、新たな興味の視線が、私と、そして、テーブルの上の料理に、集中し始めた。
宮内卿オルダスだけが、一人、蒼白な顔で、その場に立ち尽くしていた。
彼の計画は、王太后の、たった一言によって、完全に、破綻したのだ。




