第13話 温かいお茶会という名の偵察
あの一件以来、アレスティード公爵が深夜に胃痛で倒れることはなくなった。
私が作る食事を、彼は毎日静かに、しかし綺麗に平らげていく。血色は目に見えて良くなり、執務の合間に眉間を揉む癖も減ったように思う。屋敷の空気は、私が来た頃の凍てつくような静寂が嘘のように、穏やかに流れ始めていた。
そんなある日、執事長のブランドンが私の元を訪れ、一枚の招待状を差し出した。
「奥方。来月、王家主催の夜会が催されます。こちらが、閣下と奥方宛の正式な招待状です」
ついに来たか、と私は息を呑んだ。公爵夫人として、避けては通れない社交界へのデビュー。それは、この公爵家が、そして私が、貴族社会の品定めに晒されることを意味する。
「承知いたしました。準備を進めます」
私がそう答えると、ブランドンはわずかに表情を曇らせた。
「奥方。ご存知かとは思いますが、王都の社交界は『冷製主義』が礼法の基本です。奥方のやり方は、おそらく……強い反発を招くかと」
「ええ、分かっています。だからこそ、試しておく必要があるのです」
私は微笑んでみせた。真正面からぶつかって砕けるのは愚策だ。戦う前に、まずは情報を集め、味方を作っておかなければならない。
「ブランドン。領内にお住まいの貴婦人で、穏健派、かつ社交界に影響力のある方を数名、リストアップしていただけますか。ささやかなお茶会を開こうと思います」
私の意図を察したのか、ブランドンは驚いたように目を見開いた後、深く頷いた。
「……承知いたしました。最高の偵察部隊を編成いたしましょう」
彼の口から出た物騒な単語に、私は思わず苦笑した。どうやら、私の静かな革命は、この堅物な執事長の中に、確かな共犯意識を芽生えさせているらしい。
*
数日後、公爵邸の客間の一つに、暖炉の火がぱちぱちと音を立てていた。
今日招いたのは、ブランドンが選りすぐった三名の貴婦人。領内で穏健派として知られ、王都にも顔が利くバークレイ子爵夫人。そして、比較的若い世代で、流行に敏感な男爵夫人二人だ。
厨房では、侍女長のフィーが興奮と不安が入り混じった顔で、私の隣で手を動かしていた。
「奥様、本当に温かいお菓子をお出しするのですか?お茶会といえば、冷たいゼリーや焼き菓子が基本ですのに……」
「だからこそ、意味があるのよ、フィー。誰もやったことがないのなら、私たちが最初の基準になればいい」
今日のメニューは、私の故郷の味を少しだけアレンジしたもの。焼きたての温かいスコーンに、この地で採れた濃厚なクリームと手作りのベリージャムを添えて。そして、もう一品は、カボチャの甘みを活かした、小さなキッシュ。もちろん、熱々の状態で出す。
オーブンから漂う、小麦とバターの甘い香りが厨房を満たす。それは、人の心を無条件にほぐす、魔法のような香りだった。
やがて、約束の時間になり、貴婦人たちが到着した。
客間に通された彼女たちは、一様に優雅な微笑みを浮かべているが、その瞳の奥には探るような光が宿っていた。噂の、型破りな公爵夫人。一体どんな女なのかと、値踏みされているのがひしひしと伝わってくる。
部屋の空気は、暖炉が燃えているにもかかわらず、どこかひんやりと張り詰めていた。
「ようこそお越しくださいました、バークレイ子爵夫人。皆様も、本日はお越しいただき光栄ですわ」
私が挨拶をすると、彼女たちは完璧な礼を返してくる。会話は当たり障りのない天気の話や、最近の流行りのドレスの話。そのすべてが、まるで薄い氷の膜に覆われているかのようだった。
*
その氷が、ぴしり、と音を立ててひび割れたのは、最初の一杯が運ばれてきた時だった。
「まあ……」
一人の男爵夫人が、小さく声を漏らした。
彼女たちの前に置かれたのは、透き通るようなガラスのポットの中で、美しい琥珀色の液体が湯気を立てている紅茶だった。冷たい飲み物が当然とされる場で、このあからさまな温かさは、一種の挑戦状だ。
侍女がカップに紅茶を注ぐと、ふわりと優しい香りが立ち上る。貴婦人たちは、戸惑いながらも、そっとカップを手に取った。
そして、次の一手が運ばれる。
銀の皿に乗せられた、こんがりと焼き色のついたスコーンと、小さなキッシュ。どちらからも、ほのかに湯気が立ち上っている。
「どうぞ、温かいうちに召し上がってくださいませ」
私の言葉に、三人は顔を見合わせた。しかし、一番年長であるバークレイ子爵夫人が、優雅な手つきでスコーンを一つ手に取り、半分に割った。その瞬間、閉じ込められていた湯気が、バターの香りと共にふわりと立ち上る。
彼女はそれにクリームを塗り、静かに一口、口へ運んだ。
その表情が、ごくわずかに、和らいだ。
「……美味しいですわ」
その一言を皮切りに、若い男爵夫人たちも、おそるおそるスコーンやキッシュに手を伸ばした。
一口、また一口と、温かいものが彼女たちの体に入るたびに、部屋を覆っていた氷の膜が、静かに溶けていくのが分かった。
「まあ、体がぽかぽかするようですわ」
「このキッシュ、カボチャの甘みが優しくて、とても素敵」
強張っていた肩の力が抜け、背筋がわずかに緩む。冷たい礼法で武装していた心が、温かい料理によって、少しずつ解かれていく。生理的な温かさが、心理的な温かさへと、確かに伝播していた。
気づけば、会話は弾んでいた。当たり障りのない話題ではなく、自分たちの子供の話や、庭で育てている花の話。個人的で、体温の感じられる話題へと変わっていた。
私はただ、微笑みながら相槌を打ち、時折、新しい紅茶を勧めるだけ。無理に自分を語る必要はない。この温かい空間そのものが、私の何よりの自己紹介だった。
お茶会が和やかに終わりに近づいた頃、それまで静かに話を聞いていたバークレイ子爵夫人が、ふと、私に視線を向けた。その瞳には、もう探るような色はなかった。
「公爵夫人。一つ、お伺いしてもよろしいかしら」
「ええ、もちろんです」
「あなたは、王都での夜会でも、このような温かいおもてなしをなさるおつもり?」
核心を突く質問だった。他の二人も、興味深そうに私を見つめている。
私はカップを置き、彼女の目をまっすぐに見つめ返した。
「冷たいお料理の洗練された美しさも、素晴らしい伝統だと思います。それを否定するつもりはございません。ですが、私は、お客様の体が、そして心が温まるようなおもてなしを、何よりも大切にしたいのです」
私の答えに、子爵夫人はしばらく黙って何かを考えていた。そして、ふっと、花が咲くように微笑んだ。
彼女はすっと立ち上がると、私のそばへ歩み寄り、そっと私の手を取った。その手は、来た時よりもずっと温かかった。
「公爵夫人のやり方は、型破りですわ。王都の堅物たちは、きっと眉をひそめるでしょうね」
彼女はそこで一度言葉を切り、私の手を優しく握りしめた。
「でも……私は好きよ。ええ、とても気に入りましたわ」
この小さな茶会が、いずれ吹き荒れるであろう社交界の嵐から私を守る、最初の、そして何より心強い砦となった。私の静かな偵察は、予想以上の戦果を上げて幕を閉じたのだった。