第138話 紋章の証言
その頃、アレス様は、王宮の別棟にある、会議室にいた。
表向きは、辺境での視察報告に関する、役人たちとの最終確認のためだった。だが、実際には、彼は、全く別のことに、意識を集中させていた。
会議室の長いテーブルには、数人の役人が座り、書類を広げて、何やら話し合っている。アレス様は、その議論に、適度に相槌を打ちながらも、その思考の大部分は、今頃、厨房で戦っているはずのレティシアに、向けられていた。
食材のすり替え。
あれは、明らかに、計画的な妨害工作だ。そして、その背後にいるのは、間違いなく、宮内卿オルダスとその一派だろう。
だが、証拠がない。
王宮という場所では、証拠なき告発は、逆に、こちらの立場を悪化させるだけだ。
アレス様は、役人たちの話を聞き流しながら、静かに、次の手を考えていた。
その時、会議室の扉が、ノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、アレス様に同行してきた、若い従士だった。彼は、アレス様の耳元に、小声で囁いた。
「閣下。厨房から、報告がございます。公爵夫人が、料理の準備を、始められたとのことです」
アレス様は、わずかに頷いた。
「分かった。引き続き、様子を見ていろ」
従士が退室した後、アレス様は、会議を早々に切り上げると、一人、王宮の廊下を歩き始めた。
彼の足は、厨房へ向かうのではなく、王宮の倉庫区画へと、向かっていた。
*
倉庫区画は、王宮の中でも、最も人気のない場所だった。
石造りの廊下は薄暗く、壁には、無数の扉が並んでいる。それぞれが、食材や、調度品、あるいは、古い記録を保管するための、倉庫へと繋がっていた。
アレス様は、その中の一つ、食材倉庫の扉の前で、立ち止まった。
扉には、鍵がかかっていない。彼は、静かに、それを開けると、中へと足を踏み入れた。
倉庫の中は、ひんやりとしていた。天井から吊るされたランタンの光だけが、薄暗い空間を、わずかに照らしている。
壁際には、無数の木箱や麻袋が、積み上げられていた。
アレス様は、その中から、今朝、レティシアが確認したという、アレスティード領からの荷物が置かれていた場所を、探した。
すぐに、それは見つかった。
倉庫の奥、壁際に、三つの木箱が、無造作に、放置されていた。蓋は、既に開けられており、中身は、空だった。腐った野菜や肉は、恐らく、既に、処分されたのだろう。
アレス様は、その空の木箱を、一つ一つ、丁寧に、調べ始めた。
外側には、特に、変わった点はない。ごく普通の、輸送用の木箱だ。
だが、彼は、諦めなかった。
彼は、最初の木箱を、ひっくり返した。
そして、その底板を、じっと、見つめた。
木目。釘の跡。小さな傷。
全てを、見逃さないように、目を凝らす。
何もない。
彼は、次の木箱を、同じように調べた。
やはり、何もない。
最後の、三つ目の木箱。
アレス様は、それを、ゆっくりと、ひっくり返した。
そして、底板の、内側の隅を、指でなぞった。
その指が、何かに触れた。
彼は、手を止めた。
そして、ランタンを、その場所に、近づけた。
光の中に、それは、浮かび上がった。
極めて小さな、焼印。
それは、木箱の底板の、最も目立たない隅に、押されていた。通常なら、誰も気づかないような場所。だが、アレス様の、研ぎ澄まされた観察眼は、それを、見逃さなかった。
焼印の意匠は、鷲が蛇を掴む図柄。
アレス様は、その紋章を、知っていた。
それは、宮内卿オルダスの一族が、代々、使ってきた、裏紋だった。公の場では決して使われない、彼らの一族だけが知る、秘密の印。
なぜ、この印が、アレスティード領から送られてきたはずの木箱に、押されているのか。
答えは、一つしかない。
この木箱は、最初から、オルダスの息がかかった人間が、用意したものなのだ。
つまり、すり替えは、王宮に荷物が到着する前から、計画されていた。あるいは、到着した後、オルダスの手の者が、本物の木箱を、この、偽物の木箱と、入れ替えたのだ。
アレス様は、その焼印を、指でなぞった。
これは、まだ、法廷で通用するような、決定的な証拠ではない。焼印だけでは、オルダス本人が関与したことを、証明できない。部下が勝手にやった、と言い逃れることも、可能だろう。
だが、これで十分だった。
少なくとも、アレス様にとっては、黒幕が誰であるかを、確信するには、十分すぎる証拠だった。
彼は、その木箱の底板を、そっと、元に戻した。
そして、倉庫を出ると、廊下の奥に控えていた従士を、呼び寄せた。
「あの木箱を、密かに、我々の宿舎へ運べ。誰にも気づかれないようにな」
「承知いたしました」
従士が、素早く、倉庫へと入っていく。
アレス様は、廊下の窓から、王宮の中庭を、見下ろした。
その瞳には、冷たい怒りの炎が、燃えていた。
オルダス。
お前は、やりすぎた。
レティシアを、これほどまでに追い詰めたことを、必ず、後悔させてやる。
*
アレス様が宿舎に戻ると、執事長のブランドンが、待っていた。
「閣下、何か、お見つけになりましたか」
アレス様は、従士が運んできた木箱を、ブランドンに見せた。そして、底板に押された、小さな焼印を、指差した。
「これを見ろ」
ブランドンは、目を凝らして、その焼印を確認すると、息を呑んだ。
「これは……宮内卿の裏紋」
「そうだ。これで、食材のすり替えが、オルダスの差し金であることは、ほぼ確定した」
ブランドンは、厳しい表情で、頷いた。
「ですが、閣下。この証拠だけでは、オルダス卿を、直接、糾弾することは……」
「分かっている。だが、これは、交渉の材料にはなる」
アレス様は、窓の外を見つめながら、静かに言った。
「今夜の晩餐会で、レティシアが成功すれば、オルダス卿の計画は、完全に、破綻する。その時、この証拠を、彼に突きつけてやる。公にするつもりはない、だが、今後、二度と、私たちに手を出すな、と」
ブランドンは、アレス様の横顔を見つめた。
「閣下は、奥様を、信じておられるのですね」
「当然だ」
アレス様は、即座に答えた。
「レティシアは、私が知る限り、最も優れた戦術家だ。彼女は、必ず、この窮地を、切り抜ける」
その言葉には、一片の疑いもなかった。
ブランドンは、静かに、微笑んだ。
「では、我々も、準備を整えましょう。今夜の晩餐会は、大きな転機となります」
アレス様は、頷いた。
そして、再び、窓の外を見つめた。
王宮の空は、徐々に、夕暮れの色に染まり始めていた。
晩餐会まで、あと数時間。
レティシアは、今頃、厨房で、最後の仕上げに入っているはずだ。
彼は、彼女の姿を思い浮かべた。
あの、凛とした背中。迷いのない手つき。そして、どんな逆境にも屈しない、強い意志。
彼女は、もう、あの、実家で虐げられていた、弱々しい令嬢ではない。
彼女は、今、誰よりも強く、誰よりも輝いている。
そして、その彼女の隣に、自分がいられることを、アレス様は、心から、誇りに思っていた。
彼は、静かに、呟いた。
「頼んだぞ、レティシア。お前なら、できる」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ、夕暮れの空に、溶けていった。




