第137話 瓦礫の中の即興曲
私の声が、厨房中に響き渡った瞬間、それまでざわついていた空気が、一瞬で、静まり返った。
五十人以上いる料理人たちが、一斉に、私の方を向く。その視線は、依然として、冷たく、懐疑的なものだった。彼らは、私が何を言い出すのか、半ば、見世物を見るような目で、待ち構えている。
私は、手に持った貯蔵庫のリストを、高く、掲げた。
「今から、私が指示を出します。言われた通りに、動いてください。時間は、あと五時間しかありません」
その言葉に、料理人たちの間から、失笑が漏れた。
「五時間で、国王陛下の晩餐を?」
「そんなこと、不可能だ」
「そもそも、ありふれた材料で、何ができるというのだ」
膳部長アルベールが、腕を組んで、冷たく言い放った。
「公爵夫人殿。我々、宮廷の料理人は、貴女様の部下ではございません。命令される筋合いは、ございませんな」
私は、彼の目を、まっすぐに見つめ返した。
「では、見ているだけで結構です。ですが、貴方がたがこの厨房の責任者として、今夜の晩餐会を成功させる義務があることも、事実ですわね。私が失敗すれば、その責任は、貴方がたにも及ぶ。ならば、私に協力する方が、得策ではありませんか」
アルベールの顔に、わずかな動揺の色が浮かんだ。
私の言葉は、正論だった。私が料理を出せなければ、国王陛下の前で、宮廷の料理人たちが恥をかくことになる。それは、彼らにとっても、避けたい事態のはずだ。
私は、その隙を逃さなかった。
すぐに、厨房の奥にいた、若い料理人を指差した。
「そこの貴方。今すぐ、貯蔵庫から、干し豆を全て持ってきてください。大きな鍋に入れて、水で戻し始めてください」
若い料理人は、戸惑ったように、膳部長を見た。
アルベールは、しばらく黙っていたが、やがて、苦々しい表情で、頷いた。
「……やれ」
若い料理人が、慌てて、走り出した。
私は、次々と、指示を飛ばし始めた。
「貴方は、塩漬けの豚肉を、できるだけ薄く、削ぎ切りにしてください。脂身も、全て、取っておいて」
「貴方は、玉ねぎと人参を、みじん切りに。包丁の刃が鈍っているなら、今すぐ研いで」
「貴方は、チーズを細かく砕いて、小麦粉と混ぜ合わせる準備を」
私の声は、冷静で、的確だった。一つ一つの指示には、無駄がなく、次に何をすべきかが、明確に示されていた。
最初は、渋々といった様子だった料理人たちも、私の指示の正確さと、その迫力に押されて、一人、また一人と、動き始めた。
私は、厨房の中央に立ち、全体を見渡しながら、頭の中で、猛スピードで、献立を組み立てていた。
ありふれた食材。保存食ばかり。だが、それらは、使い方次第で、生まれ変わる。
干し豆は、じっくり煮込めば、濃厚なスープの素になる。塩漬けの豚肉は、薄く切って炙れば、燻製のような香ばしさが出る。チーズと小麦粉を練り合わせれば、香草がなくても、コクのある生地が作れる。
私の頭の中では、前世の記憶が、鮮やかに蘇っていた。限られた予算で、クライアントを満足させるために、何度も、何度も、工夫を重ねた日々。時間がない中で、最大限の成果を出すために、全ての工程を、秒単位で、計算した経験。
料理も、同じだ。
制約があるからこそ、知恵が生まれる。
私は、厨房の一角にある、巨大なかまどを指差した。
「火力を、最大にしてください。今すぐ、薪を追加して」
火を管理していた料理人が、驚いた顔で言った。
「最大、ですか? ですが、宮廷の規則では、火力は中火までと……」
「今は、規則など、どうでもいいのです。時間がありません。最大火力で、一気に、仕上げます」
私の、有無を言わさぬ口調に、料理人は、躊躇いながらも、薪を追加し始めた。
かまどの火が、ごうごうと、音を立てて、燃え上がる。
その、激しい炎の光が、厨房全体を、オレンジ色に照らし出した。
私は、その炎の前に立った。
そして、最初の鍋を、火にかけた。
*
厨房は、戦場と化していた。
私の指示に従い、料理人たちが、それぞれの持ち場で、必死に、手を動かしている。鍋から立ち上る湯気、まな板を叩く包丁の音、薪が燃える音。全てが、一つのリズムを刻み始めていた。
私は、大きな鍋の中で、ぐつぐつと煮えている豆のスープを、木のスプーンで、ゆっくりと、かき混ぜた。
干し豆は、水で戻した後、じっくりと煮込むことで、その旨味が、最大限に引き出される。そこに、塩漬けの豚肉から出た脂と、玉ねぎの甘みを加えれば、深いコクのあるスープが完成する。
だが、それだけでは、足りない。
私は、スープの表面に、そっと、指先を近づけた。
温導質の力が、静かに、流れ出す。
スープの温度が、ほんの少しだけ、上がる。それは、沸騰させるための熱ではない。食材の持つ、命の輝きを、最大限に引き出すための、絶妙な温度調整。
瞬間、スープの香りが、一段と、濃く、豊かになった。
その香りに、近くで作業していた料理人たちが、一斉に、顔を上げた。
「これは……何という香りだ」
「まるで、肉を何時間も煮込んだような……」
彼らの驚きの声が、厨房に広がる。
私は、そのスープを、一度、味見した。
まだ、足りない。
私は、すぐに、別の鍋に目を向けた。
「チーズ生地の準備は、できていますか」
「は、はい! こちらに」
若い料理人が、小麦粉とチーズを混ぜ合わせた生地を、持ってきた。
私は、その生地を手に取ると、素早く、小さな団子状に丸めていった。それを、先ほどのスープの中に、一つ一つ、落としていく。
生地は、スープの中で、ふっくらと膨らみ、表面に浮かんでくる。
これで、一品目は、完成だ。
だが、まだ、時間がない。
私は、次の鍋に取りかかった。
塩漬けの豚肉を、薄く削ぎ切りにしたものを、強火で、一気に、炙る。表面が、カリカリになるまで。その脂を使って、玉ねぎと人参を炒め、そこに、少量の小麦粉を加えて、とろみをつける。
それを、パイ生地の上に広げ、オーブンで焼き上げる。
時間は、刻一刻と、過ぎていく。
私の額には、汗が滲んでいた。手は、休むことなく、動き続けている。
だが、不思議なことに、私の心は、冷静だった。
これは、私が、最も得意とする戦い方だ。
限られた時間と材料の中で、最大限の成果を出す。それは、前世で、何度も、何度も、繰り返してきたこと。
私は、もう、迷わない。
私の手は、正確に、そして、速く、次々と、料理を仕上げていく。
気がつけば、厨房中の料理人たちが、私の周りに集まっていた。
彼らは、もう、冷笑していなかった。
その目には、驚きと、そして、僅かな、尊敬の色が、浮かんでいた。
膳部長アルベールも、厨房の隅で、腕を組んだまま、私の姿を、じっと、見つめていた。
その表情は、複雑だった。
侍女長のフィーが、私の隣に立った。
「奥様、もうすぐ、晩餐会の時間です」
私は、頷いた。
最後の一皿を、オーブンから取り出す。
それは、チーズと豚肉を使った、素朴な、だが、香ばしい香りを放つ、焼き菓子だった。
私は、それを、白い皿に、丁寧に、盛り付けた。
そして、深く、息を吐いた。
できた。
瓦礫のような材料から、私は、確かに、料理を作り上げた。
それは、華やかさでは、宮廷の料理に劣るかもしれない。
だが、この一皿には、命がある。
温かさがある。
そして、何よりも、食べる者の心を、確かに、満たす力がある。
私は、完成した料理を前に、静かに、微笑んだ。




