第135話 影の囁き
晩餐会が終わりに近づく頃、広間の空気は、微妙に、揺れ始めていた。
老侯爵ランベールの、あの小さな呟きから始まった波紋は、完全には消えていなかった。何人かの貴族たちが、自分のスープを不思議そうに見つめ、隣の者と、小声で、何かを確かめ合っている。それは、大きな騒ぎには、まだ、なっていない。だが、この、完璧に統制された晩餐会という儀式の中で、ほんの僅かな乱れが生じたことは、確かだった。
私は、何食わぬ顔で、最後のデザートを口に運んでいた。それは、砂糖で固めた果物のコンポート。当然のように、冷たく、甘さだけが舌に残る、生命感のない一皿だった。
その時、アレス様が、静かに、席を立った。
「少し、外の空気を吸ってくる」
彼は、私にだけ聞こえる声で、そう告げると、侍従に軽く会釈し、広間の奥にある、テラスへと続く扉へと、歩いていった。その背中は、相変わらず、まっすぐで、隙がない。だが、私には分かる。彼は、この場所に、もう、一秒たりとも、いたくはないのだ。
私は、彼の後を追おうか、一瞬、迷った。だが、ここで二人とも席を外せば、それこそ、宮内卿たちに、何か弱みを見せたと思われるだろう。私は、じっと、その場に留まることにした。
アレス様が広間を出て、数分が経った頃。
私の背後から、静かな足音が近づいてくるのを感じた。振り返ると、そこには、宮内卿オルダスが立っていた。彼の、皺の深い顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。だが、その瞳には、一切の温度がなかった。
「これはこれは、公爵夫人殿。本日の晩餐は、お口に合いましたかな」
その、丁寧な言葉遣いの裏に、何かを探るような響きがあった。
「ええ。宮廷の料理人の方々の技巧には、ただただ、感服いたしました」
私は、立ち上がり、完璧な淑女の作法で、微笑みを浮かべて答えた。
オルダスは、その笑みを崩さずに、私の横に並んだ。そして、広間を見渡しながら、静かに、言葉を続けた。
「夫人は、料理に、お詳しいとお聞きしております。北の地では、随分と、変わったことを、なさっているとか」
「変わったこと、とおっしゃいますと?」
「いや、他意はございません。ただ、この王宮では、何百年も前から受け継がれてきた、古式に則った調理法が、絶対の基準とされております。それ以外のやり方は、どれほど優れていようとも、ここでは、認められることはない。それが、この国の、伝統というものです」
彼の言葉は、穏やかだった。だが、その内容は、明確な警告だった。お前の料理など、ここでは通用しない。余計な真似をするな、と。
「承知しております。私も、伝統の重みは、理解しているつもりです」
「それは、何よりです」
オルダスは、そう言うと、ふと、視線を、テーブルの上に、残された、空のスープ皿に、向けた。
「ところで、夫人。先ほど、ランベール侯爵が、妙なことを仰っておられましたな。スープの味が、いつもと違う、と」
私の、背筋を、冷たいものが走った。
彼は、気づいているのか。私が、あの一瞬、器に触れたことを。
だが、私は、表情を崩さなかった。
「ランベール侯爵は、ご高齢ですから。お疲れだったのでしょう」
「ふむ。そうかもしれませんな」
オルダスは、私の顔を、じっと、見つめた。その視線は、まるで、私の心の奥底まで、覗き込もうとするかのようだった。
そして、彼は、静かに、囁くように、言った。
「夫人。この王宮には、様々な、目がございます。全てを見ている者が、必ず、どこかに、おります。どうか、お気をつけくださいませ」
その言葉を残し、オルダスは、音もなく、その場を立ち去った。
私は、彼の背中が、人混みに消えるのを見届けると、静かに、息を吐いた。
手のひらが、汗で、湿っているのを感じた。
*
晩餐会が終わり、私は、急いで、テラスへと向かった。
扉を開けると、冷たい夜風が、顔に吹き付けてきた。王都の夜は、北の地ほど冷え込まないが、それでも、秋の終わりの空気は、十分に、肌を刺す冷たさを持っていた。
テラスの端、石の手すりに、片手をついて、夜空を見上げている、アレス様の姿があった。
「アレス様」
私が声をかけると、彼は、ゆっくりと、振り返った。月明かりの下で、彼の顔は、いつもより、さらに、青白く見えた。
「レティシア。晩餐会は、もう終わったのか」
「ええ。あなたは、大丈夫ですか」
私は、彼の隣に立った。彼は、しばらく、何も言わなかった。ただ、夜空を見つめている。
やがて、彼は、静かに、口を開いた。
「私は、この場所が、嫌いだ」
その言葉には、珍しく、感情が、滲んでいた。
「あの、冷たい食事。完璧な作法。全てが、型通りで、息苦しい。まるで、生きている人間のための場所ではなく、死んだ伝統を、飾り立てるための、墓場のようだ」
彼は、そう言うと、深く、息を吐いた。
「子供の頃、父に連れられて、何度も、この王宮に来た。そのたびに、あの、冷たい晩餐会に、出席させられた。温かいものを求めることは、弱さの証だと、何度も、何度も、言われた。私は、それを、信じるしかなかった」
私は、黙って、彼の言葉を聞いていた。
「だが、お前が来てから、私は、気づいてしまった。温かい食事は、弱さではない。それは、人が、人として、生きるために、必要なものなのだと。だから、今日のような晩餐会は、もう、耐え難いのだ」
彼の声には、苦しみが、滲んでいた。
私は、彼の、その大きな手を、そっと、握った。
「アレス様。あなたは、もう、一人ではありません。私が、隣にいます」
彼は、私の手を、握り返してきた。その手は、冷たかった。だが、その指に込められた力は、確かだった。
「ありがとう、レティシア」
彼は、そう言うと、初めて、私の方を、まっすぐに、見た。
「だが、これから、さらに、厳しい戦いが待っている。あのオルダス卿は、私たちを、完全に、潰すつもりだ」
「分かっています。あの方は、私にも、警告を発してきました」
私は、先ほどの、オルダスとのやり取りを、アレス様に話した。
彼は、黙って聞いていたが、その表情は、徐々に、厳しさを増していった。
「やはり、か。彼は、お前が、何かをしたと、疑っている」
「ええ。証拠は、ないはずです。でも、彼の直感は、鋭い」
「ならば、次は、さらに、用心が必要だ」
アレス様は、そう言うと、テラスの手すりから、手を離した。
「レティシア。明日、お前は、もう一度、宮廷の厨房に、行く必要がある」
「何のために、ですか」
「数日後、国王陛下主催の、正式な晩餐会が開かれる。そこで、お前は、料理を、披露することになる。それが、今回の召喚の、本当の目的だ」
私は、息を呑んだ。
「それは、つまり……」
「そうだ。お前の料理を、王族と重臣たちの前で、評価する。それが、表向きの理由だ。だが、実際には、お前を、公の場で、失敗させ、恥をかかせるための、罠だ」
アレス様の言葉は、冷静だったが、その瞳には、怒りの炎が、燃えていた。
「オルダス卿は、その日のために、あらゆる妨害を、仕掛けてくるだろう。食材の手配、厨房の使用許可、調理の時間。全てを、お前に不利になるように、整えてくる」
「では、どうすれば……」
「戦うしかない」
アレス様は、私の肩に、手を置いた。
「だが、お前は、一人ではない。私も、そして、私たちの仲間も、全力で、お前を支える。必ず、あの男たちに、一泡吹かせてやる」
彼の言葉が、私の心に、勇気を、吹き込んでくれた。
私は、頷いた。
「分かりました。私も、覚悟を決めます」
二人は、しばらく、無言で、夜空を見上げていた。
王都の空は、北の地とは違い、星が少ない。だが、その暗闇の中に、一筋の光明が、必ず、あるはずだ。
私たちは、それを、見つけ出さなければならない。




