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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第134話 一匙の反逆

 晩餐会は、終盤に差し掛かっていた。


 これまでに出された料理は、どれも完璧な技巧で作られた芸術品だった。しかし、その美しさは、まるで墓標のように冷たく、食べる者の心を満たすことはなかった。広間に満ちる空気は、最初の頃よりもさらに冷え切っている。貴族たちの会話も、形式的な社交辞令だけが響き、誰もが、この長い儀式が終わることを、ただ待っているようだった。


 私は、隣に座るアレス様の、その横顔を、視界の端で捉えていた。彼の表情は、相変わらず、鉄仮面のように、何一つ、感情を表に出していない。だが、その顔色は、明らかに、青白さを増していた。冷たい料理を口に運ぶたびに、彼の喉が、わずかに、こわばるのが見えた。


 その時、私の目の前に、最後の料理が、静かに、置かれた。


 それは、透き通るコンソメスープだった。銀の器に満たされた、黄金色の液体。恐らくは、何時間もかけて、丁寧に、濾された、澄み切った、完璧なスープなのだろう。だが、その表面には、一筋の湯気も立ち上っていない。当然だ。ここでは、全ての料理が、人肌以下に冷まされることが、絶対の規則なのだから。


 給仕係が、白い手袋をはめた手で、慎重に、その器を、私の目の前に、そっと、置いた。


 私は、銀のスプーンを、手に取った。


 そして、周囲を、一瞬だけ、見渡した。


 国王陛下は、玉座で、目を閉じ、何かを考えている。宮内卿オルダスは、相変わらず、冷たい瞳で、私たちを、値踏みしている。他の貴族たちは、誰も、私に注意を向けていない。


 今しかない。


 私は、そっと、息を吸い込むと、スカートの下にある、自分の右手を、静かに、銀の器の底に、触れさせた。


 途端に、私の指先から、微かな熱が、流れ出していくのを感じた。


 それは、私の特殊体質、「温導質」の力。触れたものの温度を、緩やかに、上昇させる能力。感情が高まれば高まるほど、その効果は強くなる。今、私の心は、アレス様を守りたい、という一心で、激しく、燃えていた。


 銀の器は、優れた熱伝導体だ。私の指先から伝わった熱が、器を伝い、中のスープへと、静かに、拡散していく。


 ほんの数秒。


 私は、指を、そっと、離した。


 変化は、極めて、微細なものだった。スープが、沸騰するほど熱くなったわけではない。ただ、墓場のように冷え切っていた液体が、ほんの少しだけ、人の体温に近い、柔らかな温度に、近づいただけ。それは、誰にも気づかれないはずの、私だけの、ささやかな、反逆だった。


 私は、何食わぬ顔で、スプーンを、スープに、差し入れた。


 そして、一口、静かに、すすった。


 瞬間、私の舌の上で、何かが、弾けた。


 それは、味だった。今まで、氷のように冷やされることで、完全に、殺されていた、食材本来の、繊細で、深い味わいが、ほんの少しの温度の変化によって、一斉に、花開いたのだ。野菜の甘み、鶏の旨味、香草の爽やかな香り。それらが、一つの調和を奏で、私の喉を、優しく、滑り落ちていく。


 ああ、これだ。


 これこそが、料理の、本当の姿。


 冷たく、固く、閉ざされた殻の中に閉じ込められていた、命の輝きが、温度という鍵によって、解放された瞬間。


 私は、スープの器を、そっと、テーブルに戻した。


 その時、私の隣で、小さく、息を呑む音がした。



 私は、視線を、横に向けた。


 そこには、私の隣に座る、白髭の老侯爵がいた。彼の名は、確か、ランベール侯爵。王家にも古くから連なる、名家の当主だったはずだ。


 老侯爵は、不思議そうな顔で、自分の目の前にある、コンソメスープの器を、じっと、見つめていた。そして、もう一度、スプーンを手に取ると、慎重に、それを、口に運んだ。


 彼の、白い眉が、わずかに、動いた。


「おや……?」


 その呟きは、極めて小さなものだった。だが、静まり返った広間の中では、それは、十分に、周囲の注意を引くものだった。


 老侯爵は、自分のスープを、もう一口、味わうと、今度は、隣に座る公爵夫人の器を、そして、さらに、その向こうの貴族の器を、怪訝そうな顔で、見比べ始めた。


「妙だな。このスープ、私のものだけ、何か、違うような……」


 彼の言葉に、何人かの貴族が、顔を向けた。そして、自分たちの器と、老侯爵の器を、確かめるように、見比べている。


 私は、静かに、息を殺していた。


 まずい。彼の器にも、私の熱が、伝わったのだろうか。いや、違う。彼は、私のスープと、自分のスープを、比較しているのだ。


 私は、何食わぬ顔で、再び、スープを、一口、すすった。


 周囲の貴族たちの、ざわめきは、まだ、小さい。だが、確実に、広がり始めていた。


 そして、その、小さな波紋に、最初に気づいたのは、宮内卿オルダスだった。


 彼の、鋭い視線が、私と、そして、老侯爵の器に、注がれる。その瞳には、何かが起きている、という、警戒の色が、宿っていた。


 私は、彼の視線を、感じながらも、表情一つ、変えなかった。


 もう、引き返せない。


 私がしたことは、極めて、ささやかなものだ。だが、それは、この、冷たく、固まった王宮の空気に、確かに、一つの、小さな亀裂を、入れたのだ。


 老侯爵が、再び、小さく呟く。


「いや、気のせいか……。しかし、確かに、今日のスープは、いつもより、少しだけ、味が、はっきりしているような……」


 その言葉は、周囲の貴族たちの、さらなる好奇心を、呼び起こした。


 何人かが、自分のスープを、改めて、味わい始める。そして、首を傾げている。


 私は、ただ、黙って、自分のスープを、最後まで、飲み干した。


 その、温かみを帯びた液体が、喉を通り、胃の中に、広がっていく。それは、この、冷え切った広間の中で、私の心に、ほんの少しの、温もりを、取り戻させてくれた。


 これは、反逆だ。


 誰にも気づかれない、一匙の、静かな、反逆。

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