第133話 晩餐会
その夜、王宮の宿舎に割り当てられた部屋の空気は、ひどく重かった。
私は大きな姿見の前で、侍女長のフィーに手伝われながら、晩餐会用のドレスに袖を通していた。深い瑠璃色の絹地は、北の地では決して見ることのない、贅沢で滑らかな手触りだった。しかし、鏡に映る自分の姿は、まるで借り物の衣装を着せられた人形のように、どこか落ち着きがなく見えた。
「奥様、本当にお美しいですわ。このドレス、王都のどんなご令嬢にも負けていません」
フィーが、心からの賞賛の言葉を口にしながら、私の背中の編み上げを丁寧に締めていく。その声には、私を励まそうとする健気な響きがあった。
「ありがとう、フィー。あなたのおかげで、少しだけ、戦う勇気が湧いてきたわ」
私は鏡の中の自分に、そして背後に立つ彼女に、静かに微笑みかけた。
戦う。そうだ、私はこれから戦場へ行くのだ。昼間の厨房での出来事が、脳裏に鮮やかに蘇る。膳部長アルベールの、あの、全てを見下した冷たい瞳。壁に掲げられた、絶対の法であるかのような銅板の規則。火の穢れ、という時代錯誤な言葉。
あれは、単なる厨房の流儀ではない。この王宮という場所に渦巻く、古い価値観そのものの象徴だ。変化を拒み、伝統という名の殻に閉じこもることで、自らの権威を守ろうとする者たちの、揺るぎない意志の表れなのだ。
そんな場所に、私とアレス様は、たった二人で乗り込んでいく。
支度が終わった頃、部屋の扉が静かにノックされ、アレス様が入ってきた。彼もまた、銀糸の刺繍が施された黒の礼装に身を包んでいた。いつも以上に隙のないその姿は、まるでこれから決闘にでも赴く剣士のようだ。
「準備はできたか」
彼の低い声が、静かな部屋に響く。
「ええ、いつでも」
私たちは、言葉少なに見つめ合った。互いの瞳の中に、同じ色の覚悟が宿っているのが分かった。これは、アレスティード公爵領の、そして、私たちの未来をかけた戦いだ。どちらかが倒れるまで、終わることはないだろう。
「行こう」
アレス様が、私に腕を差し出す。私は、その硬い腕に、そっと自分の手を重ねた。彼の礼装の生地はひんやりとしていたが、その下に、確かな体温と、鋼のような意志が脈打っているのを感じた。
*
国王陛下主催の歓迎の晩餐会が開かれる大広間は、眩いばかりの光に満ちていた。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に、無数の光の粒を散らしている。壁を飾る金糸のタペストリー、柱に活けられた珍しい花々、そして、そこに集う貴族たちが身に着けた宝飾品の輝き。その全てが、この国の中枢たる王宮の、圧倒的な富と権威を、無言のうちに、物語っていた。
しかし、その華やかさとは裏腹に、会場に満ちる空気は、まるで真冬の湖のように、静かで、冷え切っていた。誰もが大声で笑うことなく、完璧な作法で、扇を動かし、グラスを傾けている。その洗練された物腰は、北の地の貴族たちの、どこか荒々しくも、生命力に溢れた宴とは、全く対極にあるものだった。
私とアレス様が、侍従に導かれて広間に入ると、それまで、あちこちで交わされていた囁き声が、一瞬だけ、ぴたりと止んだ。そして、値踏みするような、あるいは、あからさまな好奇に満ちた、無数の視線が、私たちに、突き刺さる。
「あれが、北の公爵夫妻か」
「噂の、料理をするという公爵夫人……」
「なんと、野蛮な」
扇で口元を隠しながら交わされる、侮蔑の言葉が、私の耳にも届いた。私は、背筋を伸ばし、顔からは一切の表情を消して、その視線の集中砲火の中を、アレス様と共に、まっすぐに、進んだ。
広間の最も奥、一段高くなった場所に設けられた玉座の前で、私たちは、国王陛下に拝謁した。陛下は、壮年を少し過ぎた頃だろうか。整えられた髭に、穏やかな、しかし、全てを見透かすような瞳をした人物だった。
「遠路、よく参った、アレスティード公爵。そして、夫人。そなたたちの北での活躍は、余の耳にも届いておる」
その声は、威厳に満ちていた。だが、その言葉の裏に、私たちの真価を、そして、王家に対する忠誠心を、探ろうとする響きがあるのを、私は感じ取った。
「陛下の御代の栄えを、北の地より、心からお慶び申し上げます」
アレス様が、完璧な臣下の礼を取り、淀みなく答える。私も、彼の隣で、深く、淑女の礼をした。
形式的な挨拶が終わり、私たちは、主賓として、国王陛下のすぐ近くに設けられた席へと案内された。テーブルには、純白のテーブルクロスが掛けられ、銀の食器が、寸分の狂いもなく、並べられている。
やがて、楽団による、静かな演奏が始まり、晩餐会は、厳かに、開始された。
そして、最初の料理が、音もなく、私たちの前に、運ばれてきた。
それは、海の幸をふんだんに使った、美しいゼリー寄せだった。透き通った琥珀色のゼリーの中に、海老の鮮やかな赤、帆立の乳白色、そして、香草の緑が、まるで宝石のように、閉じ込められている。見た目は、まさに芸術品と呼ぶにふさわしい。
だが、銀のフォークを、そのゼリーに、そっと、差し入れた瞬間、私は、その料理の本質を、理解した。
冷たい。
まるで、氷のかけらを口に含んだかのような、絶対的な冷たさ。それは、食材の鮮度を保つための、計算された冷たさなどではない。食べる者の、体温を、そして、心を、奪い去っていくような、無機質で、攻撃的な冷たさだった。
これは、料理ではない。
宮廷からの、私たちに対する、無言の示威行為だ。「これが、王国の中心たる我々の文化だ。お前たちの、あの、火を使った野蛮なやり方が、この神聖な食卓で、通用すると思うな」。その、冷たいゼリーは、昼間、膳部長が口にした言葉を、そのまま、皿の上で、再現しているかのようだった。
*
その後も、次々と、料理が運ばれてきた。
美しい焼き色をつけた、しかし、完全に冷え切った、鳥肉のパイ。色とりどりの野菜を、幾何学模様のように、精密に、寄せ固めたテリーヌ。どれも、技巧の限りを尽くした、完璧な一皿だった。そして、その全てが、完璧に、冷たかった。
周囲の貴族たちは、それを、何でもないことのように、優雅な手つきで、口に運んでいる。彼らにとって、この、生命力の感じられない食事こそが、洗練された文化であり、守るべき礼法なのだ。私は、その、歪んだ価値観が支配する空間で、自分が、まるで異邦人であるかのような、深い孤独を感じていた。
その時、私は、隣に座るアレス様の、異変に気づいた。
彼は、表情一つ変えていない。背筋を伸ばし、完璧な作法で、ナイフとフォークを、動かしている。その姿は、他のどの貴族よりも、気高く、威厳に満ちて見えた。
だが、私は、見てしまった。彼の顔色が、シャンデリアの光の下で、普段よりも、明らかに、青白いことを。そして、その呼吸が、ごく僅かに、浅く、速くなっていることを。
私は、そっと、テーブルの下に、視線を落とした。
そして、息を呑んだ。
彼の、膝の上に置かれた左手が、テーブルクロスを、強く、握りしめていた。その指は、血の気が失せるほど、白くなっている。まるで、何か、耐え難い苦痛に、必死で、耐えているかのようだった。
その瞬間、私は、悟った。
彼にとって、この冷たい食事は、単なる「まずい食事」や、「無礼なもてなし」などという、次元の話ではないのだ。これは、彼の、心の、もっと、深い部分を、傷つける、苦痛そのものなのだ。
彼の、あの、幼い頃のトラウマ。温かいものは、弱さの象徴であると、刷り込まれ続けた、孤独な食卓。この、王宮の晩餐会は、その、呪われた記憶を、彼の目の前で、まざまざと、再現しているに違いない。
私は、顔を上げた。そして、広間を見渡した。
私の視線は、国王の斜め後ろに、控えるようにして立つ、一人の老人と、交わった。宮内卿オルダス。冷製主義の、そして、この国の、古い伝統の、守護者。
彼は、私と、そして、私の隣に座るアレス様を、じっと、見ていた。その、皺の深い顔には、獲物を、罠にかけた、狩人のような、冷たい、満足の色が、浮かんでいた。
やはり、そうか。
この晩餐会そのものが、彼らが、私たちを、精神的に、屈服させるために、仕組んだ、巨大な罠なのだ。
私の胸の奥で、何かが、燃え上がるのを感じた。それは、怒りだった。私自身が、侮辱されたことに対する怒りではない。私の、大切なパートナーが、その、最も、触れられたくない傷を、衆人環視の中で、じわじわと、抉られていることに対する、激しい、怒りだった。




