第131話 金色の召喚状
北の地で開催された学術会議が成功裏に終わってから、数ヶ月が過ぎた。
アレスティード公爵領は、目に見えて活気づいていた。私の「温導質」の科学的な有効性が証明されたことで、それを応用した新しい産業が次々と芽吹き始めていたからだ。長期保存が可能な温かいスープの缶詰、兵士たちのための携帯用温熱糧食、そして凍傷を防ぐための薬用軟膏。それらは領内の経済を潤し、人々の暮らしを豊かにし、何よりも、この厳しい土地で生きる彼らに、冬を乗り越えるための新たな希望を与えていた。
屋敷の中も、以前とは比べ物にならないほど明るい空気に満ちている。厨房ではフィーやゲルトが若い料理人たちを指導し、私の考案したレシピと伝統的な保存食を融合させた、新しい郷土料理の開発に熱中していた。書斎では、役人たちが温導質の技術をどの分野に優先的に投資すべきか、活発な議論を交わしている。
そして、私とアレス様の関係もまた、確かな安定期に入っていた。私たちは、もはや単なる契約上の夫婦ではない。領地を共に治める、唯一無二のパートナー。その認識は、屋敷の誰もが共有する、揺るぎない事実となっていた。言葉を交わさずとも、互いの視線だけで、次に何をすべきか、相手が何を考えているかが分かる。その強固な信頼関係が、日々の統治を、驚くほど円滑に進めていた。
その日も、私はアレス様と共に、書斎で領内から上がってきた報告書に目を通していた。穏やかな、いつもと変わらない午後になるはずだった。
その平穏が、一人の使者の到着によって、唐突に破られることになるとは、まだ誰も知らなかった。
*
「申し上げます! 王都より、国王陛下直属の近衛騎士様が、公式の使者としてご到着なされました!」
執務室の扉を叩くのももどかしげに、若い侍従が息を切らしてそう告げた時、私とアレス様は顔を見合わせた。王都からの公式な使者。それも、近衛騎士が直々に。尋常なことではない。
アレス様は静かに頷くと、立ち上がった。
「謁見の間へお通ししろ。ブランドン、正装の準備を」
屋敷全体が、にわかに緊張に包まれる。私たちは、急いで正装に着替えると、謁見の間へと向かった。
広間の中心には、白銀の甲冑に真紅のマントを羽織った、壮年の騎士が二人、直立不動の姿勢で立っていた。その甲冑の胸には、王家の紋章である金獅子が、誇らしげに輝いている。彼らが放つ厳粛な雰囲気は、北の地の荒々しい兵士たちとは質の違う、洗練された威圧感を伴っていた。
私たちが玉座の前に立つと、騎士の一人が、恭しく片膝をついた。そして、ビロードの布に包まれた、一通の書状を、両手で捧げ持った。
「アレスティード公爵、並びに公爵夫人レティシア様に、国王陛下より、有り難きお召し出しの御言葉にございます」
ブランドン執事長が、緊張した面持ちでその書状を受け取り、アレス様へと手渡した。
アレス様は、ゆっくりとそれを受け取ると、金獅子の紋章が刻まれた封蝋を、冷静な手つきで切り開いた。上質な羊皮紙を広げ、そこに記された流麗な文字を、黙って目で追っていく。私も、彼の隣から、その文面を覗き込んだ。
そこに書かれていたのは、私たちの功績を最大限に称賛する、極めて名誉な内容だった。
北の地における学術会議の成功は、王国の発展に大きく寄与する快挙であること。つきましては、アレスティード公爵夫妻を王都へ正式に召喚し、国王陛下、並びに王族、重臣たちの御前で、その成果を披露する晩餐会を催したく思う、と。
それは、地方領主としては、望外の栄誉と言ってよかった。周囲に控えていた役人たちの中から、おお、という、感嘆と興奮の混じった声が、小さく漏れるのが聞こえた。
だが、私の隣に立つアレス様の表情は、変わらなかった。彼は、その名誉ある召喚状を、まるで敵軍の配置図でも読むかのように、鋭く、そして、冷たい瞳で、見つめているだけだった。
彼は、羊皮紙を静かに巻き取ると、使者の騎士に向き直った。
「陛下の有り難きお言葉、確かに拝受いたしました。後日、正式な返答を差し上げると、お伝えください」
「はっ。お待ち申し上げております」
騎士たちが、厳格な作法で一礼し、退室していく。
彼らの姿が見えなくなると、謁見の間にいた役人たちは、堰を切ったように、喜びの声を上げた。
「やりましたな、閣下、奥様!」
「我らの改革が、ついに、王宮にまで認められたのですぞ!」
その興奮の輪の中で、アレス様だけが、氷のように、静かだった。
*
その夜、書斎には、私とアレス様の二人だけがいた。
昼間の興奮は、もうどこにもない。暖炉の炎が、壁に掛けられた地図を、静かに照らし出している。アレス様は、あの召喚状を机の上に広げ、指で、ゆっくりと、その文字をなぞっていた。
私は、彼が淹れてくれたハーブティーを、一口飲んだ。そして、静寂を破った。
「これは、罠ですわね」
私の言葉に、アレス様は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、やはり、という色が浮かんでいる。
「君も、そう思うか」
「ええ。あまりにも、話がうますぎます。それに、この文面。私たちの功績を称えながらも、その成果を『披露する場を与える』という、見え透いた上から目線。これは、私たちを評価するためではなく、値踏みし、そして、可能ならば、その力を奪うための呼び出しですわ」
アレス様は、私の分析に、静かに頷いた。
「その通りだ。これを画策したのは、王都の宮廷保守派だろう。特に、伝統と礼法を司る、宮内卿オルダスの一派だ」
宮内卿オルダス。その名前は、私も聞き及んでいた。王宮における「冷製主義」の総本山であり、古き血筋と伝統こそが、王国の秩序を支える絶対の基盤であると信じて疑わない、古い貴族たちの筆頭。
「彼らにとって、私たちの改革は、自らの権威を根底から揺るがす、許しがたい脅威なのだ。血筋ではなく、技術と意志によって、食事が、そして、人の暮らしが、改善されてしまう。その事実を、彼らは、何よりも恐れている」
アレス様は、立ち上がると、壁の地図の前に立った。その指が、北のアレスティード領から、南の王都までを、ゆっくりと、なぞる。
「だから、彼らは、私たちを、自分たちの本拠地である王宮へとおびき寄せた。そこは、彼らが作り上げた、伝統と礼法という名の、蜘蛛の巣だ。その中で、私たちのやり方が、いかに『野蛮』で、『無作法』であるかを、国王や、他の貴族たちの前で、徹底的に、暴き立てるつもりだろう」
それは、考えうる限り、最も厄介な戦いだった。武力や、論理だけでは、決して、勝てない。相手は、空気そのものを、支配しているのだから。
「断ることは、できないのですか」
「不敬罪に問われる。そうなれば、オルダス卿の思う壺だ。反逆の意思あり、として、領地の取り潰しを、陛下に進言するだろう」
進むも地獄、退くも地獄。まさに、完璧な罠だった。
書斎に、重い沈黙が落ちる。暖炉の薪が、ぱちり、と音を立ててはぜた。
私は、静かに、立ち上がった。そして、地図を見つめる、アレス様の、その広い背中に、向かって、言った。
「分かりました。行きましょう、王都へ」
アレス様が、ゆっくりと、振り返る。その瞳には、私の覚悟を問うような、鋭い光が宿っていた。
「四面楚歌の戦いになるぞ」
「ええ、承知の上ですわ」
私は、一歩も引かずに、彼の視線を、まっすぐに、受け止めた。
「私は、もう、逃げません。実家で、ただ、耐えるだけの『いい子』だった私とは、もう、違うのです。私たちのやり方が、正しいと信じるのなら、それを、証明するしかありません。たとえ、その場所が、敵地の真ん中であったとしても」
私の言葉に、アレス様の、厳しい表情が、ほんの少しだけ、和らいだ。彼は、私の前に、歩み寄ると、その大きな手を、私の肩に、そっと、置いた。
「そうか」
彼は、それだけを言った。