第130話 開戦前夜
学術会議の開催日まで、あと一月。その日から、アレスティード公爵邸は静かな熱狂に包まれた。
王都や各領地から、招待を受諾する返事が次々と届く。その度に、ブランドン執事長率いる執務室は慌ただしくなり、客人の格に応じた部屋の割り当てや、滞在中の警備計画の見直しに追われた。屋敷の誰もが、これから始まろうとしている歴史的な出来事を前に、緊張と高揚が入り混じった表情をしていた。
私自身も、例外ではない。日中はアレス様と共に、会議の議題や進行手順について役人たちと協議を重ねた。夜は書斎に籠り、アルマン氏から取り寄せた温導質に関する数少ない文献を読み解き、私自身の経験と照らし合わせる作業に没頭した。
私の体質が、この領地にとって重要な資源であることは理解している。だが、私自身がその本質を理解し、制御できなければ、いずれ暴走するか、あるいは他者に利用されるだけだろう。それは、かつて実家で魔力供給源として搾取され続けた日々の繰り返しに他ならない。もう二度と、誰かの都合のいい道具にはならない。その一心だけが、私を突き動かしていた。
そうして、あっという間に時間は過ぎていった。招待客のリストは何度も修正され、その最終版が私の手元に届けられたのは、会議開催の一週間前のことだった。
ブランドン執事長が、分厚い羊皮紙の束を私の執務机に静かに置く。
「奥様、こちらが最終決定リストでございます。参加者は、学者、貴族、王家の監査官を含め、総勢四十七名となりました」
「ご苦労様です、ブランドン。警備の配置は」
「万全です。閣下の指示通り、屋敷の周囲だけでなく、領都全体に警備の者を増員配置いたしました。いかなる不測の事態にも対応できます」
その言葉に頷き、私はリストの最初のページをめくった。そこには、王都アカデミーの碩学たちの名前が、厳かな書体で並んでいる。アルマン氏の名前も、その中にあった。ページをめくるごとに、各領地の有力貴族や、産業ギルドの長たちの名前が現れる。誰もが、それぞれの思惑を胸に、この北の地へやってくるのだろう。
そして、最後から二番目のページ。私は、探していた名前を、すぐに見つけた。
ヴァルモン公爵、ギヨーム。
その文字を、私は何の感情も動かさずに、ただ目で追った。あの嵐の日の教会で、私にだけ聞こえるように囁かれた、甘い毒を含んだ言葉を思い出す。彼は間違いなく、この会議を、私の力を値踏みし、可能ならば奪い取るための機会だと考えているはずだ。
私は、その名前が書かれた箇所を、指先で、とん、と軽く一度だけ叩いた。
「ブランドン。ヴァルモン公爵の滞在中は、特に注意を」
「はっ。承知しております。閣下からも、同様の指示がございました」
その言葉に、私は静かに頷いた。アレス様も、同じことを考えている。私たちは、同じ敵を見据えている。その事実が、私の心を、不思議なほど落ち着かせた。
私はリストを閉じ、ブランドンに返した。
「ありがとう。あとは、私自身の準備を整えるだけです」
私の戦場は、議論が交わされる会議室ではない。私の戦いは、もっと別の場所で、すでに始まっているのだから。
*
その日、私は一人で厨房に立っていた。
侍女長のフィーや他の料理人たちには、今日一日は誰も厨房に入らないようにと、固く命じてある。これから私が作ろうとしているものは、誰にも見せるわけにはいかない、私の秘密の「論文」だったからだ。
広大な厨房の中央に置かれた調理台の上には、選び抜かれた食材だけが並べられている。雪の下で甘みを蓄えた人参やカブ。厳しい冬を越した、滋味深い干し肉。そして、領内で採れる、体を温める効果のある数種類のハーブ。どれも、この北の地の厳しさと、豊かさを、同時に象徴するような食材たちだ。
私は、まず大きな鍋に水を張り、ゆっくりと火にかけた。そして、一つ一つの野菜を、祈るような気持ちで、丁寧に、切っていく。
学術会議で、私は難しい言葉を使って学者たちと議論するつもりはなかった。私の力の証明は、私の生き方の表明は、この料理、そのものだ。
一口食べれば、分かるはずだ。
私の力が、血筋などという過去の遺物から与えられたものではないことが。ただ、目の前の人を温めたいと願う、私の意志の力であることが。そして、その意志が、長年の経験と知識によって、技術へと昇華されたものであることが。
これは、単なるスープではない。私の全てを注ぎ込んだ、飲むための理論であり、食べるための証明書だ。
野菜を切り終え、鍋の中へと静かに入れる。干し肉とハーブを加え、蓋をして、あとは弱火で、ことことと煮込むだけ。ここからが、私の本当の仕事だった。
私は鍋の前に立ち、両手を、そっと、その熱い金属の表面に触れさせた。
目を閉じる。
意識を集中させ、私の体内にある温かい力を、指先から、鍋の中へと、ゆっくりと、流し込んでいく。
温めたい。
このスープを飲む人々の、冷えた体を、疲れた心を、芯から、温めたい。
私の願いが、意志が、熱となり、鍋の中の液体へと伝わっていく。スープの中で、野菜や肉が持つ、本来の力が、最大限に引き出されていくのが、手のひらを通して、感じられた。魔力の循環が活性化し、スープそのものが、まるで生き物のように、穏やかに、呼吸を始める。
どれくらいの時間が経っただろうか。
私が、そっと目を開けた時、厨房の扉が、静かに開く音がした。
振り返ると、そこに立っていたのは、フィーだった。彼女は、私の言いつけを破ったことを、申し訳なさそうに、しかし、心配そうな瞳で、私を見ていた。
「奥様、申し訳ありません。ですが、もう夜も更けております。少しは、お休みにならないと」
私は、彼女の気遣いに、小さく微笑んだ。
「ありがとう、フィー。でも、もう少しだけ。これが、私の戦いのための、最後の準備なの」
私のその言葉と、鍋から立ち上る、今まで嗅いだことのない、深く、そして、優しい香りに、フィーは何かを察したようだった。彼女は、それ以上何も言わず、ただ、深く、一礼すると、静かに厨房から出ていった。
私は、再び、鍋に向き直った。
スープは、完璧な状態で、仕上がっていた。
*
会議の前夜。私は、書斎で、最後の準備に追われていた。
机の上には、会議の進行表や、私が発表するためにまとめた資料の草稿が、乱雑に広がっている。厨房での作業を終えた後、ほとんど眠らずに、この作業を続けていた。
頭は冴えている。だが、体の芯には、ずっしりとした疲労が蓄積していた。窓の外は、すでに完全な闇に包まれ、時折、北の地特有の、乾いた風が、窓ガラスをカタカタと鳴らす音だけが聞こえてくる。
私が、インクの乾ききらない草稿に、最後の修正を書き加えていた、その時だった。
書斎の重い扉が、ノックもなしに、静かに開いた。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、アレス様だった。彼は、ガウン姿で、その手には、湯気の立つティーカップを二つ、持っていた。
彼は、何も言わずに部屋に入ってくると、一つのカップを、私の机の、資料が置かれていない、わずかな隙間に、そっと置いた。温かいハーブの、心を落ち着かせる香りが、ふわりと、鼻先をかすめる。
「少し、休め」
低い、静かな声だった。
私は、返事をする代わりに、ただ、こくりと頷いた。言葉を発するだけの気力が、残っていなかったのかもしれない。
彼は、もう一つのカップを手に、私の隣に、立った。そして、私が座っている椅子の、背もたれに、片手を置いた。彼は、机の上に広げられた資料に、一度だけ、目を落としたが、その内容について、何かを問うことはしなかった。
ただ、静かに、そこに、立っている。
その、沈黙が、何よりも、ありがたかった。
頑張れ、という激励の言葉よりも、大丈夫か、という気遣いの言葉よりも、彼の、この、ただ、そばにいるという無言の行動が、私の、張り詰めていた心の糸を、ゆっくりと、解きほぐしていく。
私は、ペンを置くと、彼が持ってきてくれた、温かいハーブティーを、両手で、包み込むように持った。その温かさが、疲れた体に、じんわりと、染み渡っていく。
ふと、アレス様の手が、椅子の背もたれから離れ、私の肩の上に、そっと、置かれた。
驚いて、彼の顔を見上げる。
彼は、私の目を見ずに、ただ、窓の外の闇を、見つめていた。
肩に置かれた、彼の大きな手。ガウンの生地越しに、確かな重みと、そして、彼の体温が、伝わってくる。それは、決して、熱くはない。だが、深く、静かに、私の心の芯まで届くような、温かさだった。
ヴァルモン領での一件以来、私たちの間にあった、あの、奇妙な、ぎこちない空気は、もう、どこにもなかった。
私たちは、同じ未来を見つめ、同じ敵に立ち向かう、真のパートナーだった。